中村佐知(キリスト教書翻訳者、JCFN理事)
今から5年前の秋のことです。あの年も日本に台風が来て(毎年のことですが)、各地に大きな被害を与えました。しかし台風が通り過ぎた翌日は、見事な青空が広がりました。フェイスブックには美しい青空の写真がいくつも上げられていました。
抜けるような青空に息をのみつつも、私は重苦しさを覚えずにはおれませんでした。
「天のお父様、いくら台風一過の青空が美しいからといって、これだけ多くの被害を出し、人の命も失われたことを思うと、素直に感動することはできません。この世の中には、良いこと、美しいこともたくさんありますが、残酷で悲惨なこともたくさんあります。『すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値すること』に目を留めようとしても、それらのことが小さく見えてしまうくらい、世の中には悲惨なことがたくさん起こっているではないですか。いくら良いことを見つけてそのことについて感謝しても、悲惨なことのあまりの悲惨さに、私の心は萎えそうになるときがあるのです。」
すると、忍耐と憐れみに満ちた優しい御父は、このように私に語ってくださいました。
「……最終的には、わたしはすべてのことを回復させ、正すのです。今の世の中で、あなたがあちらこちらに見ることのできる良いことや美しいことは、断片的で、ささやかで、焼け石に水のように思えるかもしれませんが、それは、あなたがたが希望を失わないようにわたしが与えている、来るべき日の前味です。どうせ長続きはしない、どうせほんのわずかのことでしかないと疑心暗鬼にならず、わたしを信じなさい。あなたがたがイエスから学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。そうすれば、わたしの平安があなたがたとともにあります。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。イエスはすでに世に勝ったのです……」
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今年もまた大きな台風が西日本を襲い、その翌日にはM6.9の大地震が北海道を襲いました。そして一時は、あの広大な北海道のほぼ全域が停電するという事態になりました。街中から光が消え、闇に包まれたのです。
しかしその中で、ある人がこんな写真をFacebookに載せていました。
写真:芝崎剛介さん撮影
地震後、停電の暗闇の中、外に出て空を見上げたときに見えた満天の星だそうです。
なんとたくさんの星でしょう! 星が空を埋めつくしています! それまでなかった星が、地震によって新たに現れたのではありません。これらの星は、いつもそこにあったのです。人工の明かりがすべて消えたとき、いつもそこにあったこれらの星が浮かび上がったのです。
「やめよ。知れ。わたしこそ神」詩篇46篇10節
このみことばが心に浮かびました。
神様の御臨在、愛、憐れみ、御業も、本当はいつも私たちを取り囲み、私たちを支えてくださっています。けれども、私たちが自力で生み出そうとする様々な試みによって、いつも私たちを取り囲んでいる神様のしるしが見えなくなってしまうことがあるのかもしれません。
神様が「やめよ。知れ」とおっしゃったとき、「あなたの自力発電の電気を全部消してごらんなさい。そして私がすでに輝かせているこの星たちを見上げてごらんなさい。わたしはいつも、あなたがたとともにいますよ」というようなことも意味しておられたのかもしれない、そんなことを思わされました。
私たちは主の同労者となるべく召されています。主は、私たちが自力で頑張るようにと突き放したりなさいません。主はすでにここにおられ、ことをなしておられます。私たちはそこに加わるのです。そのためには、私たちは定期的に、自分の手のわざを止め、心を静め、すでにそこにおられる神様に目を向ける必要があるように思います。私たちが、いつの間にか一人で走り出さないために。そして、大きな困難や悪や悲劇の前に無力感に打ちのめされるときでも、すべてを支配しておられるのは主であることを思い出すために。
主の前に静まったら、祈り持ってこのように問うてみてはどうでしょうか。「この状況の中で、どこに神様はおられるだろうか。神様はどのように働いておられるだろうか。どのように私を支え、導いておられるだろうか。神様は今、この状況で、私に何を気づいてほしいのだろうか、何を知ってほしいのだろうか?」
「私は何をしたらいいですか?」と尋ねたくなるかもしれませんが、それはまだちょっと待っていてください。自分が何をすべきかの前に、神様がどこで何をしておられるのか、その状況で神様はあなたに何を語っておられるのかに耳を澄ませてみてください。
悲惨なことが起こると、人は「神はいったいどこにいるのか?」と言うものです。しかしこの問いは、不信仰による疑いからではなく、信仰による希望から出るものとして、神様に向かって発することもできます。どんな悲惨な状況の中でも、神は必ずどこかにおられ、被造物へのご自身の愛とケアを表すために働いておられるという確信のもとで、現状では自分にはそれが見えていないことをへりくだって認め、それを見えるようにしてくださいと祈るのです。かつて、こう言った人がいました。祈りの中で私たちが神に求めるべきことは、「しるし(sign)ではなく視力(sight)」であると。
そのとき神様は、すでにそこにある主の御臨在に、愛に、御手のわざに、気づかせてくださることでしょう。しるしはすでに与えられていたことに、気づかせてくださるでしょう。この、満天の星空のように。
私たちが萎えそうになっている状況は、非常に理不尽なものかもしれません。神様がその理不尽な状況を意図的にもたらしたとは限りません。そういうときもあるかもしれませんし、神様のみこころに反して悪がなされることも多々あるでしょう。
大事なことは、どんなに理不尽な状況であっても、どんなに大きな問題であっても、神様は最終的にはそれを贖い、回復させ、正してくださること、そしてそのために今すでに働いておられると信じることです。痛みや苦しみや困難のただ中にもおられる神様に気づくことができるようにと、祈ることです。目を開け、耳を傾けてください。心を開いてください。些細なことかもしれない。パラダイム変換のような大きなことかもしれない。みことばが与えられるかもしれない。思いがけない出会いがあるかもしれない。神様は何を示してくださるでしょうか。
それから、その状況において神様がなさっておられる、愛の働きのパートナーにしてくださいと祈ります。この時点で「私は何をすればいいですか?」と祈ります。
神様の憐れみと御恵みのうちに、私たちに信仰と忍耐と平安と知恵が増し加えられますように。 そのとき私たちは、そこで神様がなさっていることに自分の在り方と行いを添わせていくことができるでしょう。
これは、たいていの場合、一回の祈りで終わるものではありません。むしろ、私たちの霊的変容のプロセスの一部として、長く続くことのほうが多いでしょう。祈りの中で新たな疑問が出てくるかもしれません。遠慮なく神様の前に持っていきましょう。理解を超えた不思議な平安が与えられるかもしれません。遠慮なくその中に浸らせていただきましょう。
祈っても、すぐには何の手応えも感じられないかもしれません。私たちには、神様に祈りの応答を要求することはできないのです。主は、ご自身が良いと思われるときに、良いと思われる方法で語られます。そのときが来るまで、へりくだってこの祈りを差し出し続けます。辛くなったら、詩篇の作者のように、「主よ、いつまでですか?」と叫んでもいいのです。いずれにせよ神様は、私たちをご自身に似た者へと形造るために、この祈りのプロセスを用いてくださるでしょう。そしてやがて私たちを通して、この地に祝福をもたらしてくださることでしょう。
今あなたは、何か萎えそうな状況の中におられますか? 混乱や、困難や、苦しみや、痛みの中におられますか? その状況を神様の前に差し出し、もう一度、先の満天の星空の情景をご覧になってみてください。
「やめよ。知れ。わたしこそ神。」