急がない生活

 中村佐知(キリスト教書翻訳者・JCFN理事)

 あれは私と夫の新婚一年目(約30年前)、二人で映画を観に行ったときのことです。

 

とても混雑していたので、私がロビーでポップコーンと飲み物を買っている間、夫は先に中に入って二人分の座席を確保することにしました。ロビーは大変な人だかりで、売店は長蛇の列でした。私は少しでも短い列、進みの早い列に並ぼうと、あたりを見回しました。そしてこれだと思った列に並んだものの、なぜかちっとも進みません。そこで、もっと進みが早かった別の列に並び直しました。すると、今度はその列が動かなくなりました。イライラしながらいくつかの列を移りました。そのうち映画が始まる時間になりました。私はまだポップコーンを買えていません。ほかのお客さんたちは皆、無事にお目当てのものを買ったか、諦めたかして、中に入っていきました。気がつくと、なんと私がロビーに残っていた最後の客でした。少しでも早い列に並ぼうと行ったり来たりした結果、いちばん最後になってしまったのです! まるでコメディのようですが、実話です。

 

この体験から何かを学べばよかったのですが、少しでも早い列に並ぼうとする習性は、なかなか抜けませんでした。スーパーのレジの列でも、駅の切符売り場でも、いちばん短い列、進みの早い列に並ぼうとします。混んでいる高速道路では、少しでも進みの早い車線に入ろうとして、右へ左へと車線変更します。夫にも子どもにも、口癖のように「早く、早く」と言います。

 

ジョン・オートバーグという牧師は、『あなたがずっと求めていた人生』という本の中で、このような症状を「急ぎ病」と呼びました。彼はこう言います。「急ぎ病が重症だと、(レジの)列に並んだあとも、隣の列で、自分が並んでいたかもしれない場所にいる人をマークします。自分が支払いを終えてもまだその人が列に並んでいたら、いい気分になります。私の勝ちです。しかしその人が自分よりも先にレジを済ますなら、がっかりします。典型的な急ぎ病です。

 

まさに私です。実は私は、渋滞している高速道路でも似たようなことをします。皆さんはいかがでしょうか?

“You must ruthlessly eliminate hurry from your life.”

(急ぐことを、何としてでも生活から排除しなければならない)

 

これは、オートバーグ牧師のメンターであり、霊的形成について多くの人を教えてきたダラス・ウィラードという人のことばです。

 

「急ぐことを、何としてでも生活から排除しなければならない。」

 

実に耳の痛いことばです。私はいつも慌てていて、早く先が知りたくて、すぐに結果を出したくて、頭の中で次の段取りを考えていて、始終そわそわ落ち着きがないのです。先のことを考え、備えをしている、と言えば聞こえはいいですが、実際には、「今」を味わっていないのです。目に見えないだれかと絶えず競争しているかのようです。

 

しかしこのような習性は、キリストに似た者に変えられていく霊的形成のプロセスでは、何の益ももたらしません。

 

ウィラードは、次のように言いました。

「急ぐことには不安や恐れや怒りがつきもので、親切であること、ひいては愛することの大敵である。……その根底には、プライド、尊大さ、恐れ、信仰の欠如があり、急ぐことで誰かにとって本当に価値あるものが生み出されることは、めったにない。」(“The Great Omission”より)

 

実に考えさせられます。急いでいるときには、確かに寛容で親切で平安な心持ちになることが難しいです。実際、急いでいるときには、なかなか他者を愛せないのです。

プリンストン大学の二人の心理学者が1970年代に行った、「善きサマリヤ人の実験」という心理学の有名な実験があります。(リンク)用事があって出かける途中の神学生が、道端に倒れている人に出くわしたとき、果たしてその人を助けるか、という実験です。実験に参加した神学生たちには、それぞれ異なる条件が割り当てられました。

 

ある神学生は、「あなたは時間にゆとりがあります」と言われました。別の神学生は「遅刻しそうです」と言われました。さらに、ある神学生の用事は、倒れていた人を助けた「善きサマリヤ人のたとえ」についての説教をすることで、別の神学生の用事は、聖書とは関係ない話をすることでした。

 

結果は、時間がないと言われた神学生たちは、その九割が立ち止まることなく倒れている人を通り過ぎ、時間にゆとりがあると言われた神学生は、六割以上の人が立ち止まって、助けの手を差し伸べました。急いでいた神学生は、これから自分が「善きサマリヤ人のたとえ」について話をすることになっていても、いざ倒れている人がいたら、その人を無視して通り過ぎていったのです。神学生が倒れている人を助けるかどうかの決定要因になったのは、彼らの信仰の確信よりも何よりも、そのとき彼らが急いでいたかどうかだったのです。

 

人は急いでいると、他者に親切にすることも、愛することもできなくなるのです。

 

私は慢性的な急ぎ病患者です。けれども、このままではいたくありません。もちろん、時には愛するがゆえに急ぐこともあるでしょう。けれども、急ぐことが愛すること、親切であることの妨げになっていると気づいたら、あえてゆっくりするよう心がけています。レジの列がどれも長かったら、あえていちばん長い列に並んでみます。あえて後ろの人に順番をゆずってみます。そうすると、イライラする待ち時間が、神様に思いを向けるきっかけとなります。自分がイエス様の弟子であったことを思い出します。ハッとしてスローダウンするとき、神様の恵みが流れ込むのを感じます。神様の笑顔を感じます。スーパーを数分早く後にするよりも、人より一歩早く改札口を駆け抜けるよりも、もっと豊かで大切なことがあると気づきます。

 

「急ぐことを、何としてでも生活から排除しなければならない。」

 

まだまだ急いでしまうことの多い私ですが、神様の憐れみと恵みの中で、急ぐことを生活から排除していきたいと願わされています。

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