ゆるぎない神の愛に根ざす

中村佐知(キリスト教書翻訳者、JCFN理事、霊的同伴者)

 

 

何年か前に、カトリックのトラピスト会司祭、ジェームス・フィンリーという人の次のような言葉を読みました。

「(神は)無限大に予測不可能なお方です。そのおかげで私たちは、[予測不可能なものでも]信頼に値するとわかります。なぜなら、どんなことの中にもキリストを意識できるようにと、神は私たちを導いておられるからです。あらゆることの中にあって私たちを支えていながらも、私たちを何物からも守ることのない、神の揺るぎない愛に徹底的に根ざしているならば、そのときこそ、私たちはあらゆることに勇気と優しさをもって向き合い、他者や自分自身の中にある痛んでいる部分に、愛をもって触れることができるのです。」

私たちを何物からも守ることがないけれど、あらゆることの中にあって私たちを支えている、神の揺るぎない愛… 読み間違えたのかと思い、何度か読み返しました。しかし、確かにそう言っています。「私たちを何物からも守ることがないけれど、あらゆることの中にあって私たちを支えている、神の揺るぎない愛…」

神様は私たちを一切守ってくださらない、という意味ではないでしょう。しかし、災害でも、病でも、職を失うことでも、愛する人との死別でも、この世で起こりうることはすべて、神を信じる人にも起こりうることです。神の愛は、私たちが悲惨な状況に陥ったり、苦しみや痛みを体験したりすることが一切ないように守ってくださるわけではありません。私たちは皆、そのことを体験的に知っています。悲しいこと、辛いこと、こんなことがなぜ起こったのかと思うようなこと… そういったものを体験したことがないという人はいないでしょう。それでも神の愛は、どんな悲惨な状況でも、どんな苦しみや痛みを体験することになっても、その中にあって私たちを支えてくださいます。そのことも、私たちの多くは、体験的に知っているのではないでしょうか。

みなさんのこれまでの歩みを振り返り、なぜ神様はこのことから私を守ってくださらなかったのか?と思いたくなるような、辛く悲しく痛みに満ちた出来事を通ったことはありますか? そのときは、耐え難く感じられたかもしれません。主が共におられると感じられなかったかもしれません。けれども、その中においても、神様が支えてくださったという事実(今、ここでこうしてこの文章を読んでおられること自体が、主がそのときの苦しみの中にあってもあなたを支えてくださった証拠ではないでしょうか)に思いを巡らせてみてください。そのとき主は、どのようにして、どのような形で、その痛みの中であなたと共にいてくださったのでしょうか。そのときは気づかなかったとしても、いま振り返ってみるなら、あなたを支えておられた神の御手が見えるかもしれません。

現在はどうでしょうか。もしかしたら、今、このとき、大変な苦しみの中におられる方がいらっしゃるかもしれません。神様はなぜ守ってくださらないのか、と言いたくなるような痛みのただ中に、今、おられる方がいらっしゃるかもしれません。あるいは、特にこれという困難があるわけでなくても、日々の暮らしが慢性的に息苦しいものになっている方もおられるかもしれません。けれどもその中で、神様はどのようにあなたを支えてくださっているでしょうか。その状況のただ中で、あなたとともにいてくださるキリストの御臨在に、支えに、気がつくことができるよう、聖霊に求めてみてください。

これから先も、困難が私たちを襲わないという保証はまったくありません。むしろイエス様は、この世にあって私たちには患難があると言われました。困難は避けられないとしても、その中でも確かに支えてくださる、神の揺るぎない愛に徹底的に根ざすことができるよう、主に助けを求めましょう。

「そのときこそ、私たちはあらゆることに勇気と優しさをもって向き合い、他者や自分自身の中にある痛んでいる部分に、愛をもって触れることができるのです。」このフィンリーの言葉にも思いを巡らせてみてください。

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