「日常生活」という修練

中村佐知(キリスト教書籍翻訳者、霊的同伴者、JCFN理事)

半年以上前、クリスティアニティー・トゥデイ誌で、ある記事を読みました。その中に、カナダのリージェントカレッジで学ぶ博士課程の大学院生の女性とユージーン・ピーターソンとの会話がありました。その学生には生まれたばかりの赤ん坊がいて、いくら聖書を読もうとしても赤ん坊の世話で何十回となく邪魔をされ、どうにもならず切羽詰まっていたそうです。そこでその状況から抜け出すための良い霊的修練はないかと、ピーターソンに助言を求めました。すると彼はこう言いました。

「あなたがすでに、日々確実に、定期的に行っている活動はありますか?」

彼女は考えました。生まれたばかりの娘に授乳することは、確実に毎日何度もしていることだと思い当たりました。そこでピーターソンにそのように言うと、彼はこう答えました。

それがあなたの霊的修練ですよ。あなたが今すでに行っていることを、これからは注意を払いながら行ってください。Be present.」

 

その学生(現在では牧師夫人)はそのときのことを回想して、こう言っていました。

「キリストにある(in Christ)よりも、キリストのため(for Christ)でありたいという強い誘惑が、私にはあったのです。私は、家庭生活における様々な自分の責任を、敬虔な生活を送る上での障害物だとみなしていました。しかし現実には、それこそがまさに、神が私に出会おうとしてくださっている場所だったのです。それに気づいたとき、私の中で『神への従順』という概念は、よりシンプルな『キリストにとどまる(cf. ヨハネ15章)』という行為を含むものとなりました。」

この部分を読んだとき、次女の闘病中、せっかく始めたばかりだった私の霊的同伴の学びの講座を、何度も欠席せざるを得なくなってしまった私に、先生がこう言ってくださったのを思いだしました。

今起こっていることを、自分の計画を邪魔するものとしてではなく、あるがままに受け止めてください。これまでこの講座で学んできたこと、つまり、あなたやミホの生活は一瞬一瞬が聖なるものであり、神はいつもそのただ中におられるということを、あなたは今まさに実際に生きているのです。そのことを覚え、ミホやあなたの毎日の中で起こっていることに注意を向けてください。

…… 締め切りやレポートなどのことは心配しないでください。時間通りに終わらせなくてはというプレッシャーを手放してください。あなたの現実の生活の中で、「いま」このとき、神がどのように働いておられるかに思いを巡らせてください。……

娘の闘病は、ある意味「日常生活」からはかけ離れていましたが、ポイントは、神様は今私たちが生きている生活の、その只中で働いてくださること、まずはそれに気づいて、そこにおられる神に応答していくということでしょうか。単調と思える日々の繰り返しの中で。あるいは突然降りかかってきた、自分の計画をひっくり返すような思いがけない試練の中で。それがなんであれ、今の自分の「日常生活」を、キリストにとどまりつつ丁寧に生きること。あるべき理想の生活を生きようともがくのでなく、「今ここで」の中にある主からの招きに気づくこと…

その招きに応答する結果として、生活の中のいろいろな側面が変えられていくように導かれるかもしれません。自分を神様から遠ざけ、また他者との関係から親密さを奪うような自分の習慣や思考や反応のパターンに気付かされたり、より神様に近づくことを助けるような活動(修練)を新たに導入したりするよう導かれるかもしれません。このころの私は、娘のために朝からスープを作ることが日課になっていましたが、それが祈りの時間になりました。野菜を刻むこと、煮ることを、祈りをこめて、神様への捧げもののつもりで行うようになりました。その場に共におられる神様のご臨在を意識しつつ、一つひとつの作業を、神殿での奉仕のように行いました。

皆さんの現在の「日常生活」では何が起こっているでしょうか。どんなリズムがあるでしょうか。忙しくて神様の前に静まる時間が持てないと感じておられる方もいるかもしれません。しかし霊的修練とは、いかにも「霊的」なものである必要はないのです。満員電車やひどい渋滞の中の高速道路での通勤も、あなただけの祈りの場、修道院(monastery)になり得ます。赤ん坊の世話をすることも、子供の学校の送り迎えの時間も、お皿洗いや洗濯物をたたむ時間も、職場や学校にいるちょっと苦手な人との関わりも、キリストにとどまっているなら、あなたと神様の出会いの場になり得ます。

今ある「日常生活」から始めなさいという神様の招き。その招きに応答できますように。主よ、助けてください。

 

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