中村佐知
(キリスト教書翻訳者、JCFN理事、霊的同伴者)
先日、リチャード・ローアというカトリックの司祭による『Just This』という本を読んでいたら、興味深い記述を見つけました。
ローアはマルコ13:33-35「気をつけて目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたは知らないからです。…… ですから、目を覚ましていなさい。家の主人がいつ帰って来るのか、夕方なのか、夜中なのか、鶏の鳴くころなのか、明け方なのか、わからないからです。」に言及していました。そして、これはイエスの再臨、すなわちthe eternal coming of Christのことだけれど、それは「今」なのだ、と言っていました。
終末論や再臨や携挙に関する神学的議論はさておき、イエスは今ここで、ご自身の御霊によっていつでも私たちとともにおられる、というのはだれもが同意する教理だと思います。ローアは、今ここにおられるイエスは、いろいろなものや出来事を通して、いろいろな機会に、私たちに語りかけよう、ご自身を現してくださろうと、いわば虎視眈々と待ち伏せ(聖なる待ち伏せ)しておられるのだと言います。しかし私たちが目を覚ましておらず、ぼんやりしていたらどうでしょうか。過去のことに気を取られていたり、将来のことばかり心配したりして、「今、ここ」に生きていないとしたら、どうでしょうか。よく言われることですが、神のご臨在(Presence)とは、過去でも将来でもなく、絶えず現在(Present)にあります。私たちが神に出会うのは、いつでも、「今、ここ(here and now)」なのです。私たちは過去に戻ることも、未来に飛ぶこともできないからです。
ただしその「今、ここ」は、ときには私たちにとって、不都合と感じるときかもしれません。一人で過ごす静かな朝の時間や、教会で礼拝しているときは主とまみえるには最高の時間ですが、忙しさの最中や、絶望のどん底にあるとき、神様とは関係ない(と私たちが思う)何らかの活動に熱中しているとき、そんなときも主はそこにおられ、私たちに出会おうと、そっと待っておられるとしたら…?
そんなことを思ったとき、「気をつけて目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたは知らないからです。」という御言葉が、新たな意味を持って迫ってくるような気がしました。
ヘンリ・ナウエンの著作に、『いま、ここに生きる[Here and Now]』(あめんどう)という良書があります。機会があれば、読んでみるのもいいかもしれません。