信仰の五月病に見上げた空

今年我が家は、3人の娘がミドル、ハイスクール、カレッジを卒業します。その為、この一か月は、それぞれの学校からの連絡に一喜一憂しては「インパーソンの卒業式になる」「こっちは、プロムもあるらしい」などと、慌ただしい毎日です。

5月の終わり、サンタクララカウンティーは、感染予防段階がイエローへと下がりました。学校も教会も、ハイブリッドでの新たな課題を残しながらも、新しい年度への回復の希望が見えてきました。しかしその裏では、このパンデミックで、社会やコミュニティーからの孤立が日常化した為、信仰のバックスライドや、形骸化の問題が浮き彫りになってきたように思います。

私たちは、4月の終わりに2回目のワクチン接種が完了し、子どもたちも5月中に完了します。6月からは夏休みに入りますが、動き出した世の中は、これからどうなるのか?規制が解かれた後の教会は、どうなるのか?予想のつかない現実に、心の晴れない日は未だ続きます。

2回目のワクチン接種は、既に1回目で倦怠感や発熱を経験していたので、副反応は覚悟してスケジュールを組みました。

予想通り14時間が経過した頃、眠れないほどの悪寒が始まり、引いたかと思うと、今度は熱で眠れない。そんなコントロールできない体の反応を体感しましたが、最初から解熱剤を飲めば大丈夫だったようです。

これが感染予防の為ではなく、実際の感染や病と闘う薬の副作用であったなら、どんなに辛いだろう。比べ物にならない苦しみを経験している友人知人のために、祈らされる時となりました。

そして、ここに至るまでの期間、教会や自治体で、感染を防ぐ為の法律や対策がしっかりなされたことや、医療関係者の方々の尊い労に支えられたことも、感謝せずにはいられませんでした。

話は変わって、その1週間後、長女が大学を卒業しました。その日の天気予報は、式の数時間前から、気温5℃の雨。式に出席するには、2回目のワクチン完了2週間後か、72時間以内の陰性証明の厳重なチェックが行われました。1956年以降、初めてだと言われる屋外の卒業式。冷たい雨が降る中、1時間前から場所を確保し、レインブーツとヒートテックにレインコートで臨みました。

1週間前から、毎日天気予報をチェックし、現地についても10分おきに携帯で予報を調べる私。

介さん(夫)は、「何度あなたが見ても、天気は変わらないよ。人生には雨の日も、晴れの日もある。でもきっとこの雲の上は、綺麗な青空。それを、卒業生たちに教えてくれるなんて、神さま、やってくれたね〜」とブルブル震えながら笑っている。

結局、私が何度チェックしても、祈り願った通りの天気にはならず、前代未聞の雨傘の☔️卒業式となりました。

実はもう一つ、この晴れの日を迎えても、私たちの心には、大きな雨雲が立ちこめていました。半分の卒業生は、社会が動き出す6月にならないと、就職先が決まらないという現実。長女が願ったNPOの三次面接の結果は、とうとう卒業式を迎えても届きませんでした。

人の頑張りでは、どうすることもできない失望の壁。

心に湧いてくる感情の副反応を直視し、その失望や苛立ち、不安を傍に置くこと。

私たちの弱さのうちに働かれる神を見上げること。

順調な時にはできたとしても、今は立ち上がる気力も残っていない。それはまるで、頑張ってきた自分の意思に反する「信仰の五月病」のようなものなのかもしれない。

たとえ信仰を持っていても、期待とその結果としての失望を経験することがある。その傷みに心が大きく反応し、それを繰り返すうちに、信仰がバックスライドしていく。

私たちが、自分の過去や今起きていることの意味を、神さまに何度問うても、到底理解できない時。仕方がないとあきらめる理由を見つけては、信仰の敗北者になってしまったかのように、周りから距離を取り、段々と孤立していく。

高校生の時に救われて以来、家族や友人への伝道や奉仕に、熱く燃えていた私にも、20代の初め、自分でコントロールできない現実と失望の壁にぶつかって、神さまから離れた時期がありました。

そんな信仰の五月病の時こそ、雲の上の空を見上げ、

① 結果ではなく、主ご自身を待ち望む信仰

② 今、この時を共に歩んでくださるイエスさま

が与えられている事を、何度でも思い返したい。

私には幸い、どんなに遠く、お互いの近況を知らずとも、年に一度は「どう、元気にしてる?」と気にかけてくれるHi-ba時代からの友人がいる。これまで何度も遠くに暮らす彼女の存在や、送られてくるニュースレターに励まされ、神さまの元に戻っていくことができたか、きっと彼女は知らないと思う。

けれども、そうやって神さまは、救われた時からそのような人たちを備え、これまでの旅路で、寄り添ってくれた人たちのことを、時折り思い出させてくれるのだと思う。

アウトカム(結果)を手放すことは、そのプロセスを通して、ゆっくりと、イエスさまを思い、何度でも、何度でも、イエスさまご自身を受けとりなおすことなのかもしれません。

数年前にも、心が「失望」「不安」「怒り」でいっぱいになって、そんな自分にがっかりした事がありました。「早く手放さなきゃ」「委ねなきゃ」と、信仰による焦りに掻き立てられ、緩やかに、でも確実に心が圧迫されるようでした。その時、参加したC−WITで、観想的な祈りや、センタリングプレイヤーを教えていただきました。

EC20B Workshop: 観想的な祈り by 中村佐知

GRC21 Workshop: センタリングプレイヤー by 中村佐知

それからは、少しづつ、自分に起きていることのプロセスや、そこに介入される神さまの存在に、注意を向けるようになりました。

そして、突然やってくる感情の副反応も、信仰の五月病らしきものも、芋虫がさなぎを経て、蝶にBecomingされていくように、目的を持った回復へのプロセスだと考える。

これは決して修行のように、ただ耐え忍ぶ類のものではなく、プロセスを自分なりにエンジョイすることができることも知りました。

BEFORE

これまでは、目の前に回転寿司のように流れてくる「問題のお皿」を、「うわっ、来た!どうしよう」とわざわざ自分の懐にたぐり寄せては、そのお皿を食べなければならなかった自分。(美味しいお寿司なら嬉しいけれど)

AFTER

それからは「あぁ、来た。、、、これがそれね。」と「問題のお皿」を認識する。例えそれが特上の問題であっても、「イエスさま〜」とただ主にフォーカスして、その名を声に出してみる。そのうち、そのお皿は流れているので、私がたぐり寄せない限り、いつの間にか見えなくなってしまうのです。

これは、自分の責任を無視して、努力しないというのではない。むしろ主を信頼できず、備えられた時と結果を待てない私。なんとか結果をコントロールしようと、必死な自分に気づかせ、その不安や駆り立てられる思いから、自由にされる気がしました。

「たとえ自分の心が責めたとしても、安らかでいられます。神は私たちの心よりも大きな方であり、すべてをご存じだからです。”」(ヨハネの手紙 第一 3章20節)
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

当然ながら、またしばらくすると同じようなお皿が流れてくるのだけど、それが何百、何千と流れていく度、その問題を引き寄せない代わりに、自分がイエスさまの元へと引き寄せられていることに気づく。もはや、自分で問題を解決するよりも、そこに介入されるイエスさまとの対話を楽しみ、御手の業に期待するようになる。

私たちは、疲れたから休むのではなく、疲れる前に、休みが必要です。

最近の私の静まる時間は、心配事の雑念をはらう修行の時ではなく、ただ神さまの愛を受け取るだけに、そこに在る時間となり、時には眠ってしまうほどの、このうえない至福の時となりつつあります。

あの日、卒業式が終わりに近づき、卒業証書を受け取りにステージに上がる頃、吹きつける冷たい風が雨雲を吹き飛ばし、空には青空が広がっていきました。

それは、見たこともない御伽の国の風景のようで、何度写真を撮っても、その美しさと素晴らしさの感動を、収めることはできませんでした。

久しぶりに家に帰ってきた長女は、その後もテストや面接が続き、願っていたNPOに就職が決まりました。これも握りしめるべき結果ではなく、次のステップへのプロセスとして、神さまが見せてくださった青空だと話しています。

今もう一度、あの雨の上がった美しい青空を思い出しながら、神さまはこれからも、皆さんがまだ見たことのない信仰の青空を、それぞれに見せてくだることにワクワクしています。

新しく迎える6月も、皆さんの見上げた空に、美しい青空が見えますように。🌿

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。」(伝道者の書 3章11節)

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 サンタクララバレー日系キリスト教会 中尾真紀子
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