恵美ダーンおすすめの一冊

Linda Dillow著「Calm My Anxious Heart: A Woman’s Guide to Finding Contentment」(Audiobook: Oasis Audio, 2007)

 

みなさんは「心配」や「不安」をどのように解消されていますか?自分の力の限り解決策を考えて行動する。忙しさに没頭し、考えないようにする。ひたすら不安ループに身を任せる・・・そんな心に対して語りかけるのが、今回ご紹介する一冊です。Linda Dillow著「Calm My Anxious Heart: A Woman’s Guide to Finding Contentment」は、調べる限り日本語訳がなく、私はオーディオブックで聞きました(NavPressからKindleバージョンも出ています)。

 

あまりにも内容が濃くて、3回以上聞き直したほどですが(笑)。自分自身、昔から「不安な心」を持っていることを自覚していますが、特にこの数ヶ月、転職活動が思うように行かず、生活も不規則・・・朝起きる気力もなく、ウジウジ虫になっている日々・・・そんな時に出会った一冊でした。

 

聖書の中では「恐れるな」、「思い煩うな」と書いていますが、具体的にはどのようにすれば?と思ったことはないでしょうか。私は、単純に『恐れ「ない」』・『思い煩わ「ない」』ようにすればいいと思いつつ、そんなことは『でき「ない」』。なにかを「しない」ことより

、なにかを「する」ことに目を向けて行動するほうが、わかりやすいのが人間ですから。

 

そんな「する」ことを具体的にこの本は提示してくれます。私がこの本で受け取った大きな「ギフト」が、「Anxiety(不安)」を落ち着かせるためには、その逆の「Contentment(満足する心)」を心のうちに宿すという提案でした。確かに、不安の心をなくそうと努力することにエネルギーを注ぐより、満足する心を育てる方がわかりやすい気がします。そして、その満足する心をどれほど持っていなかったかを痛感する時でもありました。

 

満足する心は、いくつかの領域から、得ることができると、著者は言っています。それは、状況、自分(性格・体型)、立場・人間関係です。

 

今回は、その中でも「自分」について、1点ピックアップしていきたいと思います。「自分」に対して満足するとは、どういう意味でしょう。

 

個人的に、自分の性格に不満を持つことを昔からしており、もうちょっと◯◯だったら・・・もっとこのところが改善されれば・・・もっとあの人みたいになれたら・・・と、それを「向上心」という名のオブラートで不満を包み、日々飲み込んでいました。でも、著者はここで「ちょっと待った」をかけます。私が短所と思うようなところ、神様が私のことを創ってくださった時、「あえて」備えてくださった性格です。長所も、短所も、意図して与えてくださったのです。それに対して文句を言うことは、神様の御業を否定することだし、不満を持つだけ時間の無駄。私ができること、できないこと、これらは神様が私の人生の目的を果たせるように与えてくださったもの。神様からの目的を改めて受け取り、凸凹な性格を存分に用いることを、教わりました。

 

今回、全体を通して心に残ったのが、著者の能動的な姿勢でした。自らを神様の代わりに状況を操作しようとする「コントロールフリーク(control freak)」と気づいたそうですが、人生の主導権を主である神に託し、委ねることを始めました。それは、両手を挙げて、ただ「途方に暮れる」こととは違います。能動的に生きるとは、コントロールフリークになるのではなく、自分が管理(コントロール)を任されている領域を見分け(私達は特にここの判断に難しさを感じます)、それ以外は主の御手に託すこと。では、自らコントロールできる領域はどうすればいいのでしょうか。それは、「選択」することにあります。

 

様々な選択ができると思いますが、一番大きいのが、「感謝することを選択」することです。主が今までしてくださったことを思い起こし、これからも主は導いてくださることを信じること。著者は、不安になった時に実際にこれらを紙に書き出しました。ここに、一つ大きな、不安な心に対して戦うヒントがあります。頭の中で思い起こすだけではなく、書き出すこと。そして、書き出した内容を見て、主が今までしてくださったことを祈りの中で宣言して、主に感謝を捧げること。これは、世の中が提唱する「感謝リスト」を書き出すことと全く違います。「ハクナ・マタタ♪心配ないさ〜♪」と歌って心配事を忘れることとも違います。昨日も、今日も、明日も変わらないイエス・キリストが、今まで導いてくださった同じ御手で、今も、そしてこれからも、導いてくださる、という信仰の宣言です(ヘブル13:8)。

 

この一冊は著者の経験談、知人(主に宣教の心を与えられた当時共産国で暮らしていた女性たち等)の言葉、有名なクリスチャンの偉人たちの経験と言葉を通して、実に実践的に、立体的に書かれています。本の初版は1989年に出されているにもかかわらず、やはり聖書の色褪せない真理は、2020年代にも十分しっくりきます。特に、著者の経験談は、心の内をとても素直に綴られて、当時共産国だった国々での危険な宣教生活の中でどのように信仰が試され、主への信頼が深まって行ったかも知ることができます。

 

どんな時代にあっても、不安になるようなことは尽きません。そして、私たちは自分の力でそれを払拭するように、とは言われていません(世の中は、自分の力で払拭する方法を提示する本で溢れていますが)。でも、同時に、不安の心を取り除いてもらうように神に祈って終わり、でもないのです。主なる神さまに委ねる領域と、自分の託された行動できる領域を見分け(これも、祈り知恵が与えられる必要があります)、小さな一歩を踏み出して行くことです。時として、その小さな一歩を踏み出す力さえも、主に与えられるように祈るしか、できない時もあります。それで、いいのです。「満足する心」への一歩は、そこから始まります。

 

セントラルカンファレンス23 証① Jessica Suzuki

セントラル・カンファレンス2023を通して、神様が私の人生にどのように働いてくださったかを分かち合う機会をいただき、この上なく感謝しています。

正直に言うと、CCや日本人のコミュニティーに関わることは、私にとって居心地が悪いものでした。2016年に大学進学のためにアメリカに来て以来、日本に関連するものから遠ざかっていました。この7年間、私は日本で育った日系アメリカ人としてのアイデンティティに苦しんできました。日本語を話す機会が減り、日本語で礼拝したり、日本語で聖書を読んだりすることが減り、自分の信仰を表現する主な方法は英語になっていました。日本や、日本が私にとって意味するものは、年月とともに私の人生から遠ざかっていきました。心の底では、私の大きな部分がそれを悲しんでいたと思います。

過去2年間、友人がCCやその他の日本のイベントに私を誘ってくれていましたが、私はいつも断っていました。再びその記憶を開けることを躊躇しました。その大きな理由は、私が日本にいたきときに属していたクリスチャン・コミュニティに関係しています。日本で宣教師の子供として育った私は、少なくとも8回は引越しをし、大学まで6つの異なる学校に通いました。そのような環境の中で、残念なことに、生活の基盤となる場所が最も苦痛を生み出す場所でもありました。10代の自分を振り返ってみると、霊的な寂しさしか感じなかったことを覚えています。もっと深く神を知りたかったし、深い会話をしたかったけれど、文化や言葉の壁がその機会を妨げているように感じました。その寂しさは、私にとって苦々しさに変わりました。「あなたはどこにいますか?もっとあなたを知りたい、あなたを求める共同体の一員になりたい、でも行き詰まりを感じる」といつも神様に問いかけていたのを覚えています。情熱的な日本のクリスチャン・コミュニティがあることは知っていましたが、悲しいことに、私は霊的に生きている教会よりも、死んでいる教会に多く出会ってきました。そのような渇いた空間で神様が動くのを見られなかったことが、私の心の中に苦しさと傷を作り出し、それは今も私が葛藤している部分です。しかし、2022年の初めにどん底に落ちた後、神様は私の心を和らげ、神における自分のアイデンティティを再発見し、私の人生のあらゆる面において癒しと変容を求めるように変えられました。その中には、日本で育った自分自身と自分のルーツを再発見することも含まれています。この2022年から2023年にかけて、私は再び日本のコミュニティーに足を踏み入れるようになりました。

それゆえ、私がもう少しそれらのことについて考える完璧なタイミングでCCに参加することになりました。私はCCに何の期待もしていませんでした。ただ、神様がこのカンファレンスに、心をオープンにして参加するようにと私を呼んでおられることだけは分かっていました。そして案の定、神様は私の心を動かし、和らげてくださいました。純粋に心からイエスを愛している日本人クリスチャンに出会い、私の故郷に心を寄せ、情熱を注いでいる外国人(中には日本に行ったことすらない人もいる)に出会い、私の心は砕かれました。神様は、日本とそのコミュニティに対する神様の深い愛と、神がいかに存在し、ずっと存在しておられるかを私に思い出させてくれました。自分の故郷のために祈ったのはいつ以来だろう?日本のような場所で、神様が動いてくださることに希望を託したのはいつ以来だろう?この地のリバイバルのために祈ったのはいつ以来だろう?他のクリスチャンたちがこのリバイバルのために熱心に祈っているのを目の当たりにして、私は自分が神に信頼を置くこと、そして神がこの地でどのように動いてくださると信頼することから、どれほどかけ離れているのかを思い知らされました。冷淡で、辛辣で、拳を握りしめたままの私が、自分自身や自分の傷よりも大きなものを信じるように心を変えることから始まるのだと。「ジェシー、手放す準備はできているか?心を開いてくれるかい?あなたの心は、わたしの心を痛めるものに対して痛めるか?わたしはこの場所にいる。あなたが見ていなくても、わたしは動いている。わたしは日本を愛しているし、この場所を捨てたわけではない。わたしがあなたの中で働けるように、もっと場所を空けてくれないか?わたしがもっとあなたを通して働けるように、場所を空けてくれないか?まずあなたの中で働けなければ、あなたを通して働くことはできないよ。」

CCは、私の日本への愛を何度も何度も確認させてくれました。自分のルーツと再会し、同じ情熱と愛を分かち合う人々と出会うという、私の癒しの旅の出発点になってくれたことに、感謝でいっぱいです。もう日本を過去の一部にしたくない…。今後、私個人として日本のコミュニティとどのような関わりを持つことになるのか、見当もつきません。しかし、私は両手を広げ、主が私に計画されたものは何でも受け取る姿勢でいます。

 

「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。」(ローマ人への手紙11章36節)

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