セントラル・カンファレンス2023を通して、神様が私の人生にどのように働いてくださったかを分かち合う機会をいただき、この上なく感謝しています。
正直に言うと、CCや日本人のコミュニティーに関わることは、私にとって居心地が悪いものでした。2016年に大学進学のためにアメリカに来て以来、日本に関連するものから遠ざかっていました。この7年間、私は日本で育った日系アメリカ人としてのアイデンティティに苦しんできました。日本語を話す機会が減り、日本語で礼拝したり、日本語で聖書を読んだりすることが減り、自分の信仰を表現する主な方法は英語になっていました。日本や、日本が私にとって意味するものは、年月とともに私の人生から遠ざかっていきました。心の底では、私の大きな部分がそれを悲しんでいたと思います。
過去2年間、友人がCCやその他の日本のイベントに私を誘ってくれていましたが、私はいつも断っていました。再びその記憶を開けることを躊躇しました。その大きな理由は、私が日本にいたきときに属していたクリスチャン・コミュニティに関係しています。日本で宣教師の子供として育った私は、少なくとも8回は引越しをし、大学まで6つの異なる学校に通いました。そのような環境の中で、残念なことに、生活の基盤となる場所が最も苦痛を生み出す場所でもありました。10代の自分を振り返ってみると、霊的な寂しさしか感じなかったことを覚えています。もっと深く神を知りたかったし、深い会話をしたかったけれど、文化や言葉の壁がその機会を妨げているように感じました。その寂しさは、私にとって苦々しさに変わりました。「あなたはどこにいますか?もっとあなたを知りたい、あなたを求める共同体の一員になりたい、でも行き詰まりを感じる」といつも神様に問いかけていたのを覚えています。情熱的な日本のクリスチャン・コミュニティがあることは知っていましたが、悲しいことに、私は霊的に生きている教会よりも、死んでいる教会に多く出会ってきました。そのような渇いた空間で神様が動くのを見られなかったことが、私の心の中に苦しさと傷を作り出し、それは今も私が葛藤している部分です。しかし、2022年の初めにどん底に落ちた後、神様は私の心を和らげ、神における自分のアイデンティティを再発見し、私の人生のあらゆる面において癒しと変容を求めるように変えられました。その中には、日本で育った自分自身と自分のルーツを再発見することも含まれています。この2022年から2023年にかけて、私は再び日本のコミュニティーに足を踏み入れるようになりました。
それゆえ、私がもう少しそれらのことについて考える完璧なタイミングでCCに参加することになりました。私はCCに何の期待もしていませんでした。ただ、神様がこのカンファレンスに、心をオープンにして参加するようにと私を呼んでおられることだけは分かっていました。そして案の定、神様は私の心を動かし、和らげてくださいました。純粋に心からイエスを愛している日本人クリスチャンに出会い、私の故郷に心を寄せ、情熱を注いでいる外国人(中には日本に行ったことすらない人もいる)に出会い、私の心は砕かれました。神様は、日本とそのコミュニティに対する神様の深い愛と、神がいかに存在し、ずっと存在しておられるかを私に思い出させてくれました。自分の故郷のために祈ったのはいつ以来だろう?日本のような場所で、神様が動いてくださることに希望を託したのはいつ以来だろう?この地のリバイバルのために祈ったのはいつ以来だろう?他のクリスチャンたちがこのリバイバルのために熱心に祈っているのを目の当たりにして、私は自分が神に信頼を置くこと、そして神がこの地でどのように動いてくださると信頼することから、どれほどかけ離れているのかを思い知らされました。冷淡で、辛辣で、拳を握りしめたままの私が、自分自身や自分の傷よりも大きなものを信じるように心を変えることから始まるのだと。「ジェシー、手放す準備はできているか?心を開いてくれるかい?あなたの心は、わたしの心を痛めるものに対して痛めるか?わたしはこの場所にいる。あなたが見ていなくても、わたしは動いている。わたしは日本を愛しているし、この場所を捨てたわけではない。わたしがあなたの中で働けるように、もっと場所を空けてくれないか?わたしがもっとあなたを通して働けるように、場所を空けてくれないか?まずあなたの中で働けなければ、あなたを通して働くことはできないよ。」
CCは、私の日本への愛を何度も何度も確認させてくれました。自分のルーツと再会し、同じ情熱と愛を分かち合う人々と出会うという、私の癒しの旅の出発点になってくれたことに、感謝でいっぱいです。もう日本を過去の一部にしたくない…。今後、私個人として日本のコミュニティとどのような関わりを持つことになるのか、見当もつきません。しかし、私は両手を広げ、主が私に計画されたものは何でも受け取る姿勢でいます。
「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。」(ローマ人への手紙11章36節)