WIT20の恵み

福田港(ふくだこう)

WIT 2020!! 一体どこからはじめたらいいだろう?初めは何を期待していいのか全然わからなかった。僕の兄と妹は二人ともWITに参加したことがあったけれど、僕が知っていたのはそれだけだった。二人にどんな体験をしたのか聞いてみたら、二人とも、それは一生に一度の体験だったよ、と教えてくれた。

WITの数ヶ月前、CC(セントラルカンファレンス)がオンラインで行われ、大成功をおさめた。WITの時までにはロックダウンが解かれることを願っていたけれど、神様には別の計画があった。

少し早送りすることににすると、みんなの自己紹介ビデオをみながら彼らがどんな風なのかを想像するのはとても楽しかった。でも、正直言うと、新しい人たちみんなに会うことに少しナーバスになっていた。スモールグループに繋がるっていうのは一つの手だけど、、、でもZOOMミーティングでは、全員が自分のことを見ているんだ。

実際のリトリートが始まってみると、こんなに短い間にこんなにパワフルな交わりを持つことができるなんて知らなかった。ジェロムのリードしてくれた素晴らしいワーシップの時間、カナロペとクリスティンのリードしてくれたちょっと風変わりなアイスブレイクのゲームからはじまり、全てが計画され、とてもうまく行われて行った。自分はiPadに向かって話しかけているのにすべての経験がこんなにパーソナルであることにただただ圧倒された。冗談はさておき、神様はこの二晩(自分のタイムゾーンでは)本当に素晴らしく働いてくださった。これから自分は2度とZOOMでの交わりを軽くみることはないだろう。

テーマは「明け渡し」。シンプルだけど深いトピックだ。個人的に密度の濃いディスカッションのトピックが大好きなので、スモールグループでの深い交わりはとても楽しかった。そして、摂さんのリードした、時間外で行われた「証の時間」は、信仰、砕かれ、そして憐みのジェットコースターだった。自分と同じ年頃のたくさんの日系人クリスチャンたちが同じような試練を通らされた、あるいは通っていることに、とてもへり下さらせ、また励まされた。

主の御心なら、来年は顔と顔を合わせて実際に会いたいと思う!知らなかったけど、たくさんのキリストにある新しい兄弟姉妹が自分にはいたのだから。

画面越しに受けたWIT20の恵み

西村日和(にしむらひより)

WIT20は初のオンライン開催。物理的に同じ空間にいることはできなくても、共に聖書を読み、祈り、神様の恵みを分かち合うとき、そこには聖霊様が働かれ神様の臨在が溢れることを感じる、そのような時となりました。

今回、多くの霊的な養いが与えられて感謝だったのですが、特にキャンパスミニストリーについての情報や証を聞くことができたことが大きな恵みでした。わたしの住んでいる東海岸は日本人が多いのにも関わらず、在米日本人向けミニストリーや若い世代のクリスチャンがあまり活発ではありません。幸い、わたし自身は20代の日本人クリスチャンたちのバイブルスタディやSG(スモールグループ)を定期的に持つことができ、主にある兄弟姉妹やコミュニティに支えられています。日々愛する姉妹たちと共に祈っているうちに、この東海岸で(NYで)日本人留学生向けのミニストリーを始めるという思いがWIT20の少し前からわたしたちのSGに与えられていました。そこで、WITではぜひ若い世代のクリスチャンたちが活発な西海岸やその他の地域のミニストリー活動や情報をもらえたら…と思い、祈って臨みました。

集会後の時間に、それぞれどういった経緯で救いに招かれたのかという証大会をした際、キャンパスミニストリーによって救われた参加者が多くて驚いたと共に、わたしに今示されているこの新しいビジョンへの思いも一層強まりました。また、ISIという留学生向けミニストリーの活動をしている団体についての情報も教えていただき、WIT20の直後にそのNY担当者と連絡をとってみたところ、この新しいミニストリーのために共に祈っている姉妹たちの一人と知り合いであることが判明し、驚くほどすぐにコンタクトが取れて、またISIからのバックアップも得ることができました。

“主はみことばを下してこれを溶かし、その風を吹かせられると、もろもろの水は流れる。(詩篇147:18)”

神様の風がこの地に吹き、ここにいる飢え渇いた魂にその命の水が流れるように、引き続き祈って準備をしていきたいと思います。

加えて、WIT20のテーマ「明け渡す」ことは、わたしにとって日々の課題です。神様はわたしの創り主であり御父であられるのだから、何がわたしにとってベストであるかはわたし以上に主がご存知なのにも関わらず、自分で自分の最善・最高を決めたがってしまうわたし…今回のバイブルスタディでもわたしたちはまず“主権”を神様に明け渡そうと語られました。弱く情けない人間である以上、これからもわたしは神様の前に足掻いたり駄々をこねたりするかもしれません。それでも、もっと神様の愛が分かるように、握りしめているものを手放してその開いた両手で神様の恵みを目一杯受け取ることができるように、そしていつも良いもので満たしてくださる主の御計画に信頼して歩めるように、日々祈り求めていきたいと思います。

SGメンバー、奉仕者の皆様、そして全てを導いてくださった神様に心から感謝です。

聖なる待ち伏せ

中村佐知

(キリスト教書翻訳者、JCFN理事、霊的同伴者)

先日、リチャード・ローアというカトリックの司祭による『Just This』という本を読んでいたら、興味深い記述を見つけました。

ローアはマルコ13:33-35「気をつけて目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたは知らないからです。…… ですから、目を覚ましていなさい。家の主人がいつ帰って来るのか、夕方なのか、夜中なのか、鶏の鳴くころなのか、明け方なのか、わからないからです。」に言及していました。そして、これはイエスの再臨、すなわちthe eternal coming of Christのことだけれど、それは「今」なのだ、と言っていました。

終末論や再臨や携挙に関する神学的議論はさておき、イエスは今ここで、ご自身の御霊によっていつでも私たちとともにおられる、というのはだれもが同意する教理だと思います。ローアは、今ここにおられるイエスは、いろいろなものや出来事を通して、いろいろな機会に、私たちに語りかけよう、ご自身を現してくださろうと、いわば虎視眈々と待ち伏せ(聖なる待ち伏せ)しておられるのだと言います。しかし私たちが目を覚ましておらず、ぼんやりしていたらどうでしょうか。過去のことに気を取られていたり、将来のことばかり心配したりして、「今、ここ」に生きていないとしたら、どうでしょうか。よく言われることですが、神のご臨在(Presence)とは、過去でも将来でもなく、絶えず現在(Present)にあります。私たちが神に出会うのは、いつでも、「今、ここ(here and now)」なのです。私たちは過去に戻ることも、未来に飛ぶこともできないからです。

ただしその「今、ここ」は、ときには私たちにとって、不都合と感じるときかもしれません。一人で過ごす静かな朝の時間や、教会で礼拝しているときは主とまみえるには最高の時間ですが、忙しさの最中や、絶望のどん底にあるとき、神様とは関係ない(と私たちが思う)何らかの活動に熱中しているとき、そんなときも主はそこにおられ、私たちに出会おうと、そっと待っておられるとしたら…?

そんなことを思ったとき、「気をつけて目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたは知らないからです。」という御言葉が、新たな意味を持って迫ってくるような気がしました。

ヘンリ・ナウエンの著作に、『いま、ここに生きる[Here and Now]』(あめんどう)という良書があります。機会があれば、読んでみるのもいいかもしれません。

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