霊的修練としての「ラメント(嘆き悲しむ)」

中村佐知(JCFN理事、キリスト教書翻訳者、霊的同伴者)

 世の中には、とても悲しいこと、辛いことがたくさんあります。それは、他者が自分に対して行なった悪かもしれませんし、自分が他者、あるいは自分自身に対して犯してしまった悪かもしれません。あるいは、だれのせいでもないような、不運としか言えないようなことかもしれません。社会の構造悪かもしれません。

 

 私たちに痛みをもたらすものは、残念なことに、この世の中には少なからずあるものです。どうにも辛いこと、悲しいことがあるとき、私たちはどうすればいいのでしょうか。賛美することや感謝することについてはよく教えられていますが、嘆き悲しむことについてはどうでしょうか。

 

 悲しむとは、英語ではラメント(lament)と言い、聖書的な行為でもあります。詩篇の約3分の1は嘆きの詩篇(Lament Psalms)と呼ばれる、嘆きや悲しみや苦しみを表現するものです。マイケル・ギナンというカトリックの司祭は、「ラメントとは、信仰が破綻したのでなく、信仰から出る行為である」と言いました。そして、聖書的な悲嘆、ラメントは、直接神様に向けて発せられるものであることを指摘しています。内にこもって悲しみの中で絶望するのでなく、神に向かって叫ぶのです。それは、神は私たちを愛し、ケアし、私たちの叫びに耳を傾け、いつでも私たちとともにおられると知っていればこそできることです。ただしラメントは、私たちの叫びに神様が答えをくださることを保証するものではありません。むしろ、納得できる答えがないことを受け入れることでもあります。つまりラメントとは、私の悲しみを和らげ、慰めてくださるのは神様しかいない、私のニーズを究極的に満たしてくださるお方は神様しかいないと認めることなのです。

 神様は私たちの苦しみや悲しみに目を留めてくださいます。私の嘆きの声を聴いてくださいます。泣き叫んでも、痛みがすぐになくなるわけではないでしょう。理不尽な状況について納得いく説明をいただけるとも限りまりません。しかし神様は、私たちが流す涙を通して私たちと出会ってくださり、一緒に涙を流してくださいます。そして私たちが流す涙と神様の涙は干からびた大地を潤す水のようになり、やがてそこから神の御国に属する何か新しいものが生まれてくるのではないでしょうか。

 聖書は確かに「いつも感謝しなさい、絶えず喜んでいなさい」と言っています。しかしそれは、世の中にある悪や不公正や不条理そのものを、あたかも何か良いもの、あるいは大したことではないかのように受け入れなさいという意味ではないと思います。むしろ、神様はそれらのものを究極的に正し、失われてしまったもの、壊れてしまったものを贖ってくださると知っているから、だからいつも感謝し、喜ぶことができるのではないでしょうか。ラメントを締め出した感謝と喜びは、偽りの預言者が「平安だ、平安だ」と言うのと変わりません。エレミヤはこう言っています。「彼らはわたしの民の傷をいいかげんに癒し、平安がないのに、『平安だ、平安だ』と言っている。(6:14)しかし主は、私たちの傷を「いいかげんに」癒しておしまいにするようなお方ではありません。

そこで今日は、霊的修練としてのラメントをお分かちしたいと思います。

 聖書にはラメントがたくさん出てきます。詩篇の約3分の1がラメントですし、哀歌はその全体がラメントです。ヨブ記にもヨブのラメントがいくつも記されています。イエス様ご自身のゲッセマネでの祈り、また十字架上の叫びもラメントと言えるでしょう。


 たとえばいくつかの嘆きの詩篇をご覧になってみてください(6, 10, 13, 17, 22, 25, 30, 31, 69, 73,79, 86, 88, 102篇など)。詩篇記者はなんと赤裸々に、正直に自分の嘆き悲しみを神様にぶつけていることでしょうか。これらの嘆きの詩篇を見ると、基本的な型があることがわかります。

 

  1. 抗議する(Protest)自分の現状、あるいは過去に自分を傷つけた出来事、心の痛み、嘆きを、主の前に訴えるところから始めます。こんなひどいことがあった、こんな悲しいことがあった、今こんな大変なところを通っている、こんなに傷ついている、神様、あなたはどうするおつもりですか?と神様に抗議します。神様に言いたいことや文句があれば、それも遠慮なく、正直に訴えます。
  2. 願いを差し出す(Petition):それから、自分の心の願いを神の前に差し出します。私は神様にどうしてほしいのでしょうか。何を求めたいのでしょうか。
  3. 賛美する(Praise)そして神様への信頼の念を告白します。神は愛と憐れみといつくしみに満ち、正義と公正を愛されるお方であるがゆえに、神様を信頼し、主を賛美し、感謝します。

 

この三つのプロセスが嘆きの詩篇の型だと言われています。

私たちが霊的修練として行うことのできるラメントには、いくつかの方法があります。


ひとつは、特に自分の状況や痛みと共鳴する詩篇を選び、それをそのまま祈りとして主の前で読み上げることです。


 

もう一つは、特に自分が共感する詩篇を選んだら、その中のフレーズを自分の状況に合わせてカスタマイズし、それを主の前に祈ります。

もう一つは、自分のオリジナルのラメントを書くことです。先にあげた嘆きの詩篇の基本的な型を参考にするといいかと思います。でも、きっちりそのとおりである必要はありません。また、人に見せるためのものではありませんから、無理に詩的に表現しようとしなくてかまいません。大切なことは、これはあなたの気持ちを神さまに直接訴えかけるものであることです。神様は、悲しみであれ怒りであれ、私たちの強い感情を受け止めることのできるお方です。自分のラメントを書くとき、ダビデやヨブやイエス様の言葉を拝借してもいいと思います。むしろ拝借すると、彼らとの一体感も感じられて、いっそう助けになるような気がします。「主よ、いつまでですか!」「私のたましいは苦しみに満ちています!」「私は叫んで疲れ果てました!」「わが神、わが神、なぜあなたは私をお見捨てになったのですか!」聖書の登場人物とともに、私たちの痛みを神様に訴えかけるのもいいと思います。
そして、感謝も賛美は、ラメントを書く中でまだ出てこなければ、無理をしなくてかまいません。感謝や賛美は、自然と出てくるまで待つほうがいいと思います。神様は偽預言者のようにあなたの痛みを「いいかげんに」癒すおつもりではないはずですから、私たちの側も、このプロセスの先を急ぐ必要はありません。あわてて感謝や賛美に進むのでなく、自然と出てくるまで待っていいと思います。この修練のポイントは、まず神様の前に正直に嘆き悲しみ、あなたが神様にしてほしいことを神様に伝えることです。

 また、ラメントは、個人的な痛みだけではなく、共同体としての痛みや、私たちの社会が通っている痛みについて神様の前で嘆き、訴えることもできます。自然災害が起きたとき、テロがあったとき、あるいは現在のような、パンデミックのときなどです。

 神様は、私たちが自分の境界線の中のものに責任を持つことを願っておられます。私たちの中に悲しみや痛みがあるなら、それを名指しにし、向き合い、それを主の前に訴えるように、主ご自身が招いておられるのではないでしょうか。優しく憐れみに満ちた主が、「わたしのところにそれを持ってきなさい」とおっしゃっているのが、聞こえますか?

 祝福を祈ります。

呼吸の祈り

中村佐知(JCFN理事、キリスト教書翻訳者、霊的同伴者)

今月は、「呼吸の祈り」と呼ばれる霊的修練をご紹介したいと思います。

呼吸の祈りとは、吸って、吐いての自分の呼吸に合わせて、心の中で短いフレーズを繰り返し祈るシンプルな祈りです。いつでもどこでも祈ることのできる、単純な、それでいて力強い祈りです。混乱しているとき、不安なとき、疲れているとき、私たちの思いのフォーカスを神様に向け直し、魂を生き返らせてくれます。また、通勤途中や家事をしながら、散歩しながらなど、いつでも祈れるので、自分は主とともに歩んでいるのだということを、1日を通して自分に思い出させることができます。パウロが「絶えず祈りなさい」と言ったとき、彼が想定していたのはこのような祈りだったのかもしれません。

 呼吸の祈りは、歴史的には、紀元5~6世紀ごろまでにさかのぼると言われます。当時、エジプトの砂漠に入って隠遁生活を送っていた「砂漠の師父・師母」と呼ばれる人たちがいました。その「砂漠の師父」たちが祈っていた祈りが、その後東方教会へ伝わり、Jesus Prayerと呼ばれるようになりました。Jesus Prayerとは、「主イエスキリスト、神の御子、罪人の私を憐れんでください。(Lord Jesus Christ, Son of God, have mercy on me, a sinner」という短い祈りです。彼らはこの祈りを呼吸に合わせて1日に何十回何百回と繰り返していたそうです。

 呼吸の祈りは、短い二つのフレーズの組み合わせからなります。息を吸い込みながら最初のフレーズを唱え、吐き出しながら二つめのフレーズを唱えます。実際に声に出しながらではうまくできないので、心の中で唱えます。たとえば、Jesus Prayerであれば次のようになります。

(息を吸い込みながら)主よ…
(吐き出しながら)あわれんでください

 実際に祈るときには、声には出しません。

ギリシャ語で「息」を表す言葉を「プネウマ」と言うそうですが、プネウマには「霊」という意味もありす。聖霊もプネウマです。ゆっくりと呼吸(pneuma)に合わせて祈ることで、自分の内に住まわれる聖霊(Pneuma)を意識することができます。私を慰め、励まし、力を与え、教えてくださる聖霊が、私と共にいてくださることを意識します。

 呼吸の祈りで実際に祈るフレーズに、決まりはありません。 

 エリコでの目の不自由なバルテマイとイエスとのやりとりを思い出してみましょう。バルテマイはイエスに向かって叫びました。「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」。するとイエスは彼に尋ねました。「わたしに何をしてほしいのか」。

 イエスがあなたに「わたしに何をしてほしいのか」と優しく問いかけている場面を想像してみてください。あなたはイエスに何を求めますか?

「主よ、あわれんでください。」

「主よ、助けてください。」

「主よ、ともにいてください。」

 

また、短い御言葉を選んで、それを黙想するときの祈りとしてもいいでしょう。

たとえば、「主は私の羊飼い。」という一節に思いを巡らせながら、呼吸に合わせて祈ります。
主は と心の中で言いながら大きく息を吸い込む。そして、
私の羊飼い と言いながら、ゆっくりと息を吐く。 

 

または、主の御名である「ヤーウェ」を呼吸に合わせて祈ってもいいでしょう。

「ヤー」「ウェ」「ヤー」「ウェ」

…

息を吐き出すときは、自分の中の不安や恐れや苛立ちなど、自分を神様から引き離すものを吐き出すつもりで、息を吸い込むときは、神様の愛、恵み、憐れみなど、あなたを生かしてくれる神様のいのちをたっぷり吸い込むつもりで。

ぜひ、やってみてください。

 

帰国者を理解するために(8) – 「またこの教会にこようと感じる時」その2

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過去記事リンク

はじめに

1. 帰国者ってどんな人?

2. どう接すればいいの?ー「帰国者は宇宙人?」その1

3. どう接すればいいの?ー「帰国者は宇宙人?」その2

4. どう接すればいいの?ー「帰国者は宇宙人?」その3

5. どう接すればいいの?ー「帰国者は宇宙人?」その4

6. どう接すればいいの?ー「帰国者は宇宙人?」その5

7. 「またこの教会に来よう」と感じる時 その1

 

「またこの教会に来よう」と感じるとき その2

だって、ここは日本でしょ!?

「そうは言っても、いつまでも過去の事にこだわって、目の前の現実に集中できない のは健全でないし、過去は過去の事にするのが本人のためではないのですか?」という 声が聞こえてきそうな気がします。その通りかもしれません。しかし、その人にとって 海外での生活は人生に大きな影響を与える体験であり、すでに、その人の人格の一部に なっています。「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。」(ローマ 12:15)とある ように、その人の考え方、感情を受け入れ、寄り添い、キリストの愛をもって接する時、 その人の海外経験を含めたすべての人生をを真に「生かし」ていくことができるのでは ないでしょうか。

 

「海外では」ばかり言われると、自分の教会やクリスチャンとしての在り方を否定され たように感じる。

もしそのような思いを与えてしまうとしたら、何と申し訳ないことかと思います。海 外の教会の話をするのが、私たちのように両方をある程度知っている者だとしても、日 本の教会を知らない帰国者だとしても、決して決してそのようなつもりで言っているの ではありません。私たちが言う時には「違いを知ってください。知って下されば帰国 者を理解し迎えいれやすくなります。」という思いからですし、帰国者の場合には自分 の体験を単純に分かち合いたい思いから、もしくは懐かしさのゆえに、あるいは逆カル チャーショックの表れとして、さらには目の前の日本の教会になかなか馴染めない自分 にいらだって、ということもあるでしょう。「海外の教会のようであったらいいのに」と、 叶わないと知りながら吐露してしまう、ということはあっても、否定しているとか、一 夜にして変わって欲しいと願っているとか、そんなことはないと思います。

「文化と福音」について:在外邦人伝道という異文化宣教に携わる働き人より

 ここで、働きの前提となる、「文化と福音」に関する考えについて語る必要があるかと思います。私たちは在外邦人伝道の働きをする中でいつも、「福音の本質(不変なも の)」と「それぞれの文化における表現(文化によって変わるもの)」というものがあると、 海外でキリスト者になった皆さんにお話しています。私たち夫婦がイギリスとアメリカ の神学校で学んだ際、大きなテーマだったのが、この二つをどのように分けるのかということでした。宣教学の学びが大きな助けになりました。近代プロテスタント宣教の歴史において、西洋の宣教師が福音と共に自国の文化をも宣教国に持ち込み、信者に押し付けたという反省があります。そこで不変なものと文化によって変わるもの(変えていいもの)を見分ける学問が進みました。現在、異文化宣教においては、それぞれの文化 での表現を励ますという点が大切になっています。

西洋のキリスト教(プロテスタント)も、その文化で花咲いたキリスト教です。それ以 前は近東地域、地中海地域の文化でのキリスト教でした。聖書に記録されているユダヤ 教文化における福音のあり方、異邦人文化における福音のあり方、この二つにどのような違いがあったか、それが私たちが考える際の基本になります。イギリスには4世紀に 既にキリスト教が伝わっていました。時を経るにつれ、その時代時代の福音の表現がありました。カトリックとの対立、それゆえの宗教弾圧や流血など、あってはならないような間違いをも経験してきました。現代のイギリスの教会は、長い歴史を経、そこに培 われた知恵をもって、起こり来る問題を対処しているように見えます。決して完成しているわけではありませんが、キリスト教を長く経験している年上の兄姉(きょうだい) として、学ぶことは多いように思います。

日本は西洋からの宣教師を通して福音を受けて 150 年。戦後、大衆化し、伸びてきたとはいえ、まだまだ「伝えられたものを如何に守るか」という段階のようです。日本人の 視点で神学し、日常生活の問題、異教の環境でいかに生きるかの問題にも、日本人としての答えを出していかなければなりません。西洋の神学が骨組みを与えてくれました。 それを日本人として、私たちの現実に応用していかなければなりません。それを実行するのは、一人一人の日本人クリスチャンです。私たちはそんな風に考えながら、働きに 取り組んでいます。

それぞれの教団教派のやり方・考え方、それぞれの教会の礼拝形式・運営方針には、 歴史的必然性があり、存在理由があります。そこに変化が表われる時というのは、そのキリストのからだにあって生ける石となって身を捧げ、キリストのからだを愛する者達が変化の必要を認め、変化の道を探り、答えを出し、実行に移す時でしょう。

   帰国者であってもなくても、新参者はそこに培われてきたことを尊重し、受け止め、 自分も生ける石となっていかねばなりません。変化を望むなら、生ける石として、他の生ける石である兄弟姉妹と共に、ということになります。 ですから、私たちは帰国者を導く時、1) 帰国前に経験した教会を求めるのは間違いで あること、つまり福音の本質とそれぞれの文化における表現を見分け、文化を越えて不変なもの(聖書・聖書の神・キリストを救い主と信じる信仰、等々)を求めることを教え、 2)「あなたは日本でクリスチャンとして生活したことがない。それを教え、また支えて くれるのは日本の教会である。そこでじっくり教えてもらうように」と伝えるようにしています。私たちの主は日本の教会をどのように発展させてくださるでしょうか。帰国 者を触媒として用いて下さるようにと、私たちは祈っていますが、その祈りに主はどの ように応えてくださるでしょうか。期待して見守り、私たちそれぞれに与えられた分に 忠実にお従いしたいものです。

 

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