帰国者を理解するために(7) – 「またこの教会にこようと感じる時」その1

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はじめに

1. 帰国者ってどんな人?

2. どう接すればいいの?ー「帰国者は宇宙人?」その1

3. どう接すればいいの?ー「帰国者は宇宙人?」その2

4. どう接すればいいの?ー「帰国者は宇宙人?」その3

5. どう接すればいいの?ー「帰国者は宇宙人?」その4

6. どう接すればいいの?ー「帰国者は宇宙人?」その5

 

「またこの教会に来よう」と感じるとき その1

帰国者が教会に続けて集い、教会員として成長し、キリストの体の欠くことのできな い一部として組み合わされ、互いに祝されていく。献身していく。牧師・宣教師・主の 働き人となっていく。このような器を主は起こしていて下さいます。素晴らしい主の御 業です。帰国者が日本に戻り、教会に行く。そこに「また行ってみよう」「続いて集いたい」 と感じるポイントは何なのでしょうか。「このようなことがあったので、行かなくなっ てしまった」というケースから考えてみたいと思います。

ケース 3: C さん(独身女性 イギリスの現地教会で救われ、受洗して帰国)の場合。  

私は帰国して数年経ちます。いくつか教会に行ったのですが、今は教会を離れています。もともと内向的な性格で、心にあることを表現するのが不得手で、イギリスでも慣れるのにだいぶ苦労し、時間もかかりました。でも、慣れた時には「一生の友達」になれた人がたくさんいました。イギリスを去るのは辛かったです。今でもことあるごとにイギリスの友人とメールのやりとりをしています。帰国後いろんな教会に行って、慣れる努力はしました。救いの確信もはっきりしているし、行った教会では奉仕もしました。ただ、自分にとって大切なイギリスでの話をすると、教会の人は全然興味をもってくれません「そんなこと言ったって、それは向こうのこと。ここは日本。目の前にあることに集中しなさい。イギリスのことは忘れなさい。話したってしょうがない。」といったような感じを受けてしまう応答です。そのように言われると、私自身を否定されたようで、自分が自分でいられないような気持ちになってしまい、交わりから足が遠のいてしまいます。今は、自分の信仰生活はこれでいいのかな、これしかできないかな、と思っています。

 

違いを受け入れること

 思ったことをなかなか口に出せない C さんの性格も、教会に定着できなかった一つの 要因のようです。言葉少ない C さんを、イギリスのクリスチャンの友人たちは忍耐をもっ て受け止めてくれました。理解し、愛してくれました。ところが母国の同胞は違った対 応をします(下線部分)。自分たちと同じようにならなければやっていけないと、有言 無言で示します。しかし、「いつまでもイギリスが恋しいあなたでいい、私たちと同じ ようにならなくったっていい。」という姿勢で接してくれたらどうだったでしょうか。C さんは自分を否定されたようには感じなかったでしょう。どのようにしたら、そのように接することができるでしょうか。

 

違いを受け入れるには ~ 逆カルチャーショックの常…帰国者のつぶやきは平均6ヶ月。

C さんのように、すべての帰国者が長い間海外でのことを話し続けるわけではありま せんが、多かれ少なかれ、どの帰国者にも同様の傾向はあるでしょう。彼らが海外で の経験を話すのには理由があります。一つは、彼らにとってクリスチャンとしての経験 が海外のそれしかないこと。もう一つは、それが帰国者なら誰もが通る、逆カルチャー ショックの姿だからです。違う国・言語・文化圏で生活するとき、人間は (1)「わくわく:旅行者気分」、(2) 「怒 りもしくは回避:この現地人は何なんだ!?もしくは、人との交流を避ける」、(3) 「落 ち込み:どんなにがんばってもこの国の人達のようになれない」、(4) 「落ち着き:私は 私でいい」という4段階を通ります。 日本人が海外に行った時、この4つの段階を苦労しながら通り、やがてその地の生活 に慣れるようになります。そして、日本に戻った時も同じ過程を通ります。しかし、海 外に出たときよりも帰ってきたときの方が、ショックはより大きい傾向にあります。な ぜなら、海外に出るときには、ある程度違った文化に出て行くことへの心の準備が出来 ていますが、自国へ帰国するときには往々にして無防備だからです。すでに自分の知っ ている、生まれ育った場所に帰るのだから何も心配はないだろう、そう思っていざ帰国してみると、あまりにも自分の考え方や価値観が海外のものに影響されていて、もはや 自国のものではないことに愕然とするのです。その過程で、「ふつうの」日本人には理 解し難い言動もあるでしょうが、次第に、自然に日本の生活に慣れていきます。ただ、 海外に出る前の自分に戻ることは無理で、「海外経験をした自分」に落ち着くのです。 人によって期間の幅があるものの、だいたい6ヶ月で「わくわく:日本に帰ってきた! 握り寿司も食べたい物も好きな時に好きなだけ食べられる!」「怒りもしくは回避:私 の友人は何で私の言うことをわかってくれないのか?(海外経験のある者でないとわか らない部分をもっているので)」「落ち込み:やっぱり私は『変人』になっちゃった。も う日本の社会には溶け込めない」「落ち着き:変わっていると思われてもいいや。海外で いい経験もしたし、私は私でやっていこう」という4段階を通って落ち着いていきます。

逆カルチャーショックのプロセスにある中で、C さんが言われたように「そんなこと 言ったって、それは向こうのこと。ここは日本。目の前にあることに集中しなさい。イ ギリスのことは忘れなさい。話したってしょうがない」といった態度で接せられると、 ひゅっと引いてしまいます。たとえそのようなことを言いたくても、そこはグッとおさ えて、「あぁ、そう。よかったね。そうだったの」と、ただただ受け止めてあげてください。 そうすれば彼らは、「自分は受け入れられた。あっちで経験したことも、それはそれで 良かったんだ」と思えて、交わりに留まることができるのです。

続く。。。

    

   

帰国者を理解するために(6) どう接すればいいの?ー「帰国者は宇宙人

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はじめに

1. 帰国者ってどんな人?

2. どう接すればいいの?ー「帰国者は宇宙人?」その1

3. どう接すればいいの?ー「帰国者は宇宙人?」その2

4. どう接すればいいの?ー「帰国者は宇宙人?」その3

5. どう接すればいいの?ー「帰国者は宇宙人?」その4

 

3. どう接すればいいの? – 「帰国者は宇宙人?」その5

働き人のつぶやき:帰国者は「変人」か?

欧米社会は基本的に個人主義ですので、個人の尊厳を尊重することが社会の根底にあ ります。例えば、欧州では障害者との共生が上手にできており、未信者の日本人がその ようなところからキリスト教に興味を持つケースもあります。日本人伝道しようと思う現地クリスチャンはなおさら、キリストの愛に溢れている人 が多く、その人をあるがままに受け入れ、理解しようとし、 助け、仕え、キリストの福 音とともに、生き方をもってキリストの愛を伝えてくれます。「こんな人になりたい」 との動機から求道する日本人も少なくありません。

日本を出て、言葉や文化の違いを越えてでも何かを手に入れたいと願い、それを実行 する日本人は、そこからして海外経験のない日本人から見れば「変わった人」かもしれ ません。(企業で海外赴任の場合は会社の都合で行かされるので、また違うでしょうが。) その「変人」が、このように恵まれた環境で変人ぶりを「助長されて」帰ってくるのだから、こりゃまた大変、なのでしょうか。そのようにとらえることによって、帰国者を理解しやすくなった、接しやすくなった、受け入れやすくなったという人がいるかもしれませんので否定はしませんが、帰国者に直接接している私たちとしては、もう少し違う切り口を考えます。

自分の意志で海外に行く人は「変わっている」としましょう。しかし、一口に「変わっている」と言っても、キャリアアップのために留学した人から、自分探しのためにワー キングホリデーに行った人、人生をリセットするために海外に出た人、心の病を抱え日 本を出ることに突破口を求めた人、偽装結婚をしてまでも海外に住むのが夢だった人まで、実にさまざまです。そして、海外経験がない人は全然「変わっていない」のでしょうか?個人的な観察では、日本から一歩も出たことがないという人でも、どう努力しても理解に苦しむ「変わった」人も居ます。海外経験のあるなしにかかわらず、どこに身を置いても「変人」といったレッテルを貼られる人はいます。

どうしたら帰国者が教会に定着できるのか、また教会が帰国者をより理解し、効果的 に助けることができるのか、という課題に取り組んでいる私たちからすると、一般的に 日本人は「同質(つまり、自分たちと同じような考え方や立場の人たち)」のものを好 む傾向があり、日本の教会にもそれがそのまま当てはまると思えることがあります。そして、それが新しく来られる方々にとっての壁となってしまっているように見受けられ ることがあるのです。

誤解しないでください。「もっと海外の教会のようになればいいのに」といった単純な 思いではありません。海外の教会には海外の教会の課題があります。日本の教会をよく 知っているイギリス人クリスチャンは、「イギリスの教会は日本の教会に学ばなければ ならない。聖日礼拝の後の愛餐会に象徴されるような、一緒に何かをやるということが もっとあってもいいのではないか」と言います。イギリス人未信者が日本に住んで、日本の教会で救われるということも起こっています。また、あるアメリカ人クリスチャン は、自国のクリスチャンが教会を商品化し、自分の必要を満たすためだけに教会を選び、 その満たしを得ることができないと教会を安易に変わる傾向が強いことを指摘し、教会員制度をしっかり意識し、什一献金をしっかりささげ、一つの教会に長く仕える日本人クリスチャンのあり方をとても高く評価しています。

それぞれの文化には、それにふさ わしいキリスト教の表現があり、教会の在り方があります。ただ、一般的な傾向として、 日本の教会は帰国者に限らず、新しく来る人に対して効果的にアプローチすることに チャレンジを感じているところが多いように思えます。それはよそ者(新来会者)に対 して自分たちのようになることを無意識の内に願う、日本人気質のせいなのかもしれま せん。しかし、自分たちと違う人をどう理解し受け入れるか、どうクリスチャンとして の成長を助けるかを学ぶことは、まさにパウロが 1 コリント 9 章 19 - 23 節で言って いるように、さらに多くの人をキリストのために獲得していく大きなステップとなるの ではないでしょうか。「帰国者を理解し受け入れる」ことは、日本の教会にとってはチャレンジかもしれません。しかし、だからこそ、帰国者を教会に迎えることは日本の教会の祝福になると私たちは信じているのです。「帰国者」という人を教会に迎え、キリストの体の一部として 愛する経験をし、自分たちと違う経験をした人が仲間になる過程を通じて、教会は自分 たちと異質な人を受け入れる基盤ができるのではないでしょうか。もちろんそれは「帰 国者」でなくても、「茶髪にピアスやタトゥーをしていて自分たちと違う言葉を話す若者」であってもいいでしょう。「教会の外にいる人」に優しい教会になる。普段は教会に行 かない人が初めて教会に来て「また来よう」と思える教会になる。これが実現されていくときに、よく耳にする「日本のキリスト教界の持つ閉塞感」に突破口が与えられるの ではないでしょうか。主イエスが願っておられる、キリストの御身体なる教会として、 日本の社会にキリストの光を放つのではないでしょうか。私たちもそのために日本の教 会と共に仕えていきたいと心から願っています。

コロナウィルスの脅威の中で、キリストの弟子であるということ

中村佐知(JCFN理事、霊的同伴者、キリスト教書翻訳者)

皆様、いかがお過ごしですか? 日本より一足遅く新型コロナウィルスへの対策が始まった米国では、現在いくつかの州で「外出禁止令」が出ており、学校や教会、レストランやイベント会場をはじめ、人が大勢集まるところはほとんど閉鎖されています。スーパーや散歩などで外出するときも、他の人との間に2メートルの距離を開けることを徹底するよう言われています。この十日ほどで急に状況が進み、皆とまどっています。日本ではこれから新年度に入り、休校だった学校も始まり、出勤も再開するところでしょうか。

突然訪れたこの状況の中で、多くの人が不安を抱えていることと思いますが、今朝、「コロナウィルスの脅威の中で、キリストの弟子であるということ」という記事を読んでいましたら、こんなくだりを見つけました。

このような状況でイエスに倣うとはどういうことだろうか。第一に私たちは、生きておられ、天で御座についておられるイエスの弟子であることを忘れてはなりません。…(中略)…「見よ、わたしは、世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」と言われるイエスが、御霊とともに私たちのうちにとどまっておられます。一人きりになり、思いが内向きになる誘惑に駆られるとき、ともにおられるイエスに何度でも目を向けなおす必要があります。こういうときこそ、普段以上に、一日を通して、確かなキリストの御臨在のうちに励ましと愛の慰めと御霊の交わり(ピリピ2・1)を見つける習慣をつけなければなりません。…(中略)…私たちの主であり、救い主であり、友であり、恋人であるお方は、私たちに注意を払っておられます。人間の状況に、必要に、そして世界中の人々の必要に、注意を払っておられます。私たちもまた、イエスに注意を払おうではありませんか。もちろんニュースも見て情報を得て、自分や自分の周囲の人たちの必要にも注意を払います。しかしそれと同時に、イエスから目を離さず(ヘブル12・2)、上にあるものを思い(コロサイ3・2)、イエスにとどまる(ヨハネ15・4)ことを忘れないようにしましょう。 (中村私訳)

私たちが何に注意を払うのか、何に目を留めるのかは、私たちの感情、思考、行動、態度を左右します。(ピリピ4・8参照)上記のエッセイの著者は、コロナパンデミックのような状況の中にあっても、私たちがイエスに目を留め続けることを助ける修練として、呼吸の祈りや、一日を通して折にふれて立ち止まって主に心を向けること、主の祈りを朝、昼、晩と、黙想しながら祈ることなどを勧めていました。この講座を受講しておられる皆様にとって、このような修練は、すでに馴染みのあるものとなっていることと思います。このコロナパンデミックに関しても、何が私たちの境界線内にある私たちにできること、すべきことで、何が境界線の外にあり、私たちが思い悩んでも仕方のないこと、ただ良い主の御手に信頼すべきことなのか、それらを見分ける知恵を主に求めましょう。

前述のエッセイの著者は言います。

一日を通してキリストに目を向け、キリストの力強いまなざしを見つめるとは、単なる「良い考え」ではありません。イエスの弟子となるとは、イエスのやり方を学ぶことです。(マタイ11・28-30)私たちは、イエスの導きと信仰の先達たちの助けを借りて、日々の生活の只中においてもキリストと神の御国へと私たちの思いを向けなおすための、具体的な方法を持つことができるのです。

先行きが不透明で不安や恐れがあるとき、対応しなければならない数々の事案に追われて疲弊しているとき、それでもその只中におられて、私たちを励まし、助け、守ってくださるお方の御臨在に目を向けることができますように。それによって私たちのうちにある主のシャロームが、私たちを通して周囲の人たちの心を慰めることができますように。この講座で学んできた霊的修練(注)が、そのための助けとなればと思います。

 

(eLearning講座『霊的形成の観点から見る境界線』に投稿した記事の転載)

注:JCFNブログでもこれまでご紹介してきた様々な霊的修練を参照ください。

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