待降節を迎えるにあたって

中村佐知(キリスト教書翻訳者・JCFN理事・霊的同伴者)

 

みなさんこんにちは。数ヶ月ぶりに戻ってきました。
もうすぐアドベントですね。今年は12月1日からです。

さて今日は、アドベントにぴったりのディボーショナルをご紹介します。
バイオラ大学のCenter for Christianity Culture and the Artsが毎年編纂している、画像と音楽と文章による素晴らしいディボーショナルです。英語ですが、お勧めいたします。

http://ccca.biola.edu/events/2019/dec/1/advent-project-2019-online-devotional-project/

また、アドベントを迎えるにあたりぴったりの記事があります。
トランスフォーミング・センターのルース・ヘイリー・バートンによる、Invitation to Advent: Leaders in Liminal Space という記事です。こちらも英語ですが、大変励まされる内容なので、英語で読める方にはお勧めいたします。

https://transformingcenter.org/2019/11/invitation-to-advent-leaders-in-liminal-space/

では、Happy Christian New Year!

C-WIT Norcal19の証

ウォング明日香

私はEquipper Conference には3回参加したことがあったのですが、約3か月前に、JCFNからリトリートの案内を受けたときに、C-WITがどんな事をするのかもよく分からないまま、きっと素晴らしいリトリートに違いない、と申し込みをする事にしました。今回は会場が北カリフォルニアで自宅から日帰りで参加できるのも魅力的でした。ところが申し込みの一番最後のところに、会場が毎週自分が通っている教会だとありました。これは非日常どころか、思い切り日常じゃないの~、と少しがっかりしました。でも見方を変えると、家から車で10分の会場だから家族に留守番を頼むには良い事かも、と思い、C-WITに期待して参加しました。

会場に着くと、いつもの教会にJCFNの摂さん、祐子さん、中村佐知さんという豪華メンバーがいらして、もうそれだけで非日常気分になり舞い上がりました。

しかし、話を聞くうちに、これが沈黙のリトリートだという事がわかりました。ランチは誰ともおしゃべりしないで一人で黙々と食べるというのです。その後、午後の数時間も沈黙の中で心を静めて過ごすようにとの事で、私は面食らってしまいました。自分が期待していたECのような熱い賛美、祈り、交わりとは全く異なるものだとわかったからです。

なんだか心細いまま、午前中の佐知さんのメッセージが始まりました。その中で、「このリトリートでそれぞれ期待してきたことがあるでしょうが、それも一旦、横においてください。この場に、まる一日をささげて集まってきただけで、すでに神様は喜ばれるのです。」との言葉に深い感銘を受けました。私には9歳と4歳の息子がいて、通常土曜日は、習い事やその他家の事で大忙しだったからです。このリトリートも主人の助けなくしては、まる一日を過ごすことは難しい事でした。でも飛行機で来られた方や、別の教会から一時間以上運転してこられた方の前では、自分は時間をやりくりしてようやくここに来れたのだ、と言う事すら申し訳ないような気持ちでいました。それに会場である教会のメンバーなのに何もお手伝いもせずに、ただ現れただけなのも、ちょっと申し訳ない気持ちでいました。

でも、佐知さんのお話が終わって、静かに思いをはせるうち、つまらない私の罪悪感すらも、神様に見透かされているような気がしてきました。

同時に、私の頭の中ではいつも「何かしなくてはならない」というスイッチが入っていて、静まる事が全くない事に気づきました。うちには未就学児が家にいて、ほぼいつも一緒にすごしています。私は子供の世話、家の事、時々夫の話し相手(笑)、、で頭の中が休まることがなく、疲弊しているのは明らかだったからです。

そんなわけでしたから、沈黙の中で食べる昼食は、誰にも私の時間を邪魔されず、至福の時でした。いつも人であふれかえっている教会のソーシャルホールがしんと静まり返っていました。不思議な気分でした。おいしいサラダの味をしっかり味わう事が出来たし、周りにいる誰にも気を遣わず、楽しいおしゃべりの話題すら考えず、外の美しい景色をみて、それらをを創られた神様ってすごいなぁ、と考えるだけでした。すると、心に大きな喜びがわいてくるのがわかりました。今までは、神様との対話と言えば、自分ひとりの時間が欲しい、家族の健康、自分の将来へのビジョンなど、神様に心配事をぶつけて、その解決策が与えられることを願うばかりの私でした。でもこのリトリートに来て、その願いもひとまず手放して、自分という小さな存在を神様の前に差し出したら、普段見る景色も、食事の味すらもが違って見えてきました。

昼食後、近くのバラ園に連れて行ってもらいました。一緒に行った方々とも離れて、それぞれ思い思いに過ごしました。美しいバラや、その甘い香り、カリフォルニアの青い空、そこで結婚式をしている人々、よちよち歩く小さい赤ちゃん、など全てが希望に満ちた景色に見えて、また心に喜びがわいてきました。

今回、C-WITに参加できて、本当にうれしかったです。一番の収穫は、普段の慌ただしい生活に戻ってからも、時々、深呼吸して静まること、近くに主が作られた美しいものがあり、自分もその主に愛され、生かされている、という事を確認することができるからです。

「日常生活」という修練

中村佐知(キリスト教書籍翻訳者、霊的同伴者、JCFN理事)

半年以上前、クリスティアニティー・トゥデイ誌で、ある記事を読みました。その中に、カナダのリージェントカレッジで学ぶ博士課程の大学院生の女性とユージーン・ピーターソンとの会話がありました。その学生には生まれたばかりの赤ん坊がいて、いくら聖書を読もうとしても赤ん坊の世話で何十回となく邪魔をされ、どうにもならず切羽詰まっていたそうです。そこでその状況から抜け出すための良い霊的修練はないかと、ピーターソンに助言を求めました。すると彼はこう言いました。

「あなたがすでに、日々確実に、定期的に行っている活動はありますか?」

彼女は考えました。生まれたばかりの娘に授乳することは、確実に毎日何度もしていることだと思い当たりました。そこでピーターソンにそのように言うと、彼はこう答えました。

それがあなたの霊的修練ですよ。あなたが今すでに行っていることを、これからは注意を払いながら行ってください。Be present.」

 

その学生(現在では牧師夫人)はそのときのことを回想して、こう言っていました。

「キリストにある(in Christ)よりも、キリストのため(for Christ)でありたいという強い誘惑が、私にはあったのです。私は、家庭生活における様々な自分の責任を、敬虔な生活を送る上での障害物だとみなしていました。しかし現実には、それこそがまさに、神が私に出会おうとしてくださっている場所だったのです。それに気づいたとき、私の中で『神への従順』という概念は、よりシンプルな『キリストにとどまる(cf. ヨハネ15章)』という行為を含むものとなりました。」

この部分を読んだとき、次女の闘病中、せっかく始めたばかりだった私の霊的同伴の学びの講座を、何度も欠席せざるを得なくなってしまった私に、先生がこう言ってくださったのを思いだしました。

今起こっていることを、自分の計画を邪魔するものとしてではなく、あるがままに受け止めてください。これまでこの講座で学んできたこと、つまり、あなたやミホの生活は一瞬一瞬が聖なるものであり、神はいつもそのただ中におられるということを、あなたは今まさに実際に生きているのです。そのことを覚え、ミホやあなたの毎日の中で起こっていることに注意を向けてください。

…… 締め切りやレポートなどのことは心配しないでください。時間通りに終わらせなくてはというプレッシャーを手放してください。あなたの現実の生活の中で、「いま」このとき、神がどのように働いておられるかに思いを巡らせてください。……

娘の闘病は、ある意味「日常生活」からはかけ離れていましたが、ポイントは、神様は今私たちが生きている生活の、その只中で働いてくださること、まずはそれに気づいて、そこにおられる神に応答していくということでしょうか。単調と思える日々の繰り返しの中で。あるいは突然降りかかってきた、自分の計画をひっくり返すような思いがけない試練の中で。それがなんであれ、今の自分の「日常生活」を、キリストにとどまりつつ丁寧に生きること。あるべき理想の生活を生きようともがくのでなく、「今ここで」の中にある主からの招きに気づくこと…

その招きに応答する結果として、生活の中のいろいろな側面が変えられていくように導かれるかもしれません。自分を神様から遠ざけ、また他者との関係から親密さを奪うような自分の習慣や思考や反応のパターンに気付かされたり、より神様に近づくことを助けるような活動(修練)を新たに導入したりするよう導かれるかもしれません。このころの私は、娘のために朝からスープを作ることが日課になっていましたが、それが祈りの時間になりました。野菜を刻むこと、煮ることを、祈りをこめて、神様への捧げもののつもりで行うようになりました。その場に共におられる神様のご臨在を意識しつつ、一つひとつの作業を、神殿での奉仕のように行いました。

皆さんの現在の「日常生活」では何が起こっているでしょうか。どんなリズムがあるでしょうか。忙しくて神様の前に静まる時間が持てないと感じておられる方もいるかもしれません。しかし霊的修練とは、いかにも「霊的」なものである必要はないのです。満員電車やひどい渋滞の中の高速道路での通勤も、あなただけの祈りの場、修道院(monastery)になり得ます。赤ん坊の世話をすることも、子供の学校の送り迎えの時間も、お皿洗いや洗濯物をたたむ時間も、職場や学校にいるちょっと苦手な人との関わりも、キリストにとどまっているなら、あなたと神様の出会いの場になり得ます。

今ある「日常生活」から始めなさいという神様の招き。その招きに応答できますように。主よ、助けてください。

 

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