ぷれっぷデボショーン③祈りの家が角を砕く

ゼカリヤ書 1章18~21節

“私が目を上げて見ると、なんと、四つの角があった。私と話していた御使いに「これらは何ですか」と尋ねると、彼は言った。「これらは、ユダとイスラエルとエルサレムを散らした角だ。」そのとき、主は四人の職人を私に見せてくださった。私が「この人たちは、何をしに来たのですか」と尋ねると、主は次のように言われた。「これらはユダを散らして、だれにも頭をもたげさせなかったあの角だ。この人たちは、これらの角を震え上がらせるために、やって来たのだ。ユダの地を散らそうと角をもたげる国々の角を打ち滅ぼすためだ。」”

 

ぷれっぷでこうして、メッセージをさせて頂けるのは今日で3回目になります。

最初の1回目のメッセージでは、ヨナ書から、「神さまは日本へ帰国する人々の魂を惜しんでおられる」という話をしました。

 

前回の2回目のメッセージは、「では帰国者のために私たちは何ができるのか?」ということを共に考えました。ルカの福音書11章から、旅人に必要なパンを与えることができなくても、友人にパンをくれるよう頼むことはできる、という譬え話を読んで、私たちには「とりなしの祈り」を献げることができるのを知りました。

 

そして3回目のメッセージの今日のタイトルは「祈りの家が角を砕く」です。聖書の中で「角」という言葉は、「力」の象徴として使われます。海外で救われた日本人が、帰国してからも、教会に繋がり続けることが難しいのは、「必要なものが足りないから」だけではないと思うのです。むしろ、帰国すると、そこに、様々な困難が迫るからなのだと思うのです。信仰生活ができないようにさせる、悪しき力が、そこに働くのです。それで、帰国した日本人の多くが、教会から離れてしまう現実がある。

 

ではどうすればいいのか、ということを、今日はゼカリヤ書から共に、みことばに聴きたいと思います。

 

神の民、イスラエルは昔、バビロンという国で捕虜となっていました。それは先祖たちが神から離れてしまったことが原因でしたが、そのバビロンという国で、彼らは悔い改めて、神さまへの信仰に立ち返ったのでした。

 

それで彼らは、神さまの不思議な導きによって、イスラエルに帰国することができるようになったのでした。彼らはとっても喜んで、さっそく、エルサレムに着くなり、神殿の建て直しから始めました。これからは神礼拝を生活の中心に置くんだ、と新しい気持ちでいた彼らでした。そしてまずは神殿の土台が完成した。

 

しかし、そこに妨害が起こってきたのでありました。イスラエルの周りにいた、サマリヤ人たちが、彼らが新しい生活を始めようとしているのを妬んだのです。好ましく思わなかった。それで彼らを脅したり、騙したり、困らせたりして、なんとかして神殿の再建を妨げようとした。

 

それでなんと、神の民たちは、心が萎えてしまって、燃えていたはずの炎が萎んでしまって、神殿の再建を中断してしまった。帰国してから、困難が襲いかかってきて、彼らは神礼拝をできずにいたのでありました。そんな、廃墟のままとなっていたイスラエルを励ますために、神は預言者ゼカリヤを送って、幻を見せてくださったのであります。

 

そのうちの一つの幻が、今日開いている箇所です。神の民をバラバラに散らそうとする、4つの角が滅ぼされる光景。この4つの角というのは、当時のイスラエルにとって恐ろしかった、アッシリアとエジプト、バビロンやペルシアのことだったでしょう。これらの角は、神の民にとって脅威であるように思われた、周りを取り囲む色々な「力」の存在のことを指しています。

 

皆さん、角がある動物というと、どんな動物を想像しますか?シカや、サイや、ヤギなどでしょうか。そういう動物が喧嘩をする時というのはどこをぶつけ合いますか?「角」ですよね。だから「角」という言葉が、恐ろしい「力」の象徴として、聖書では用いられるのです。

 

神殿を建て直そうとしていた彼らに、それをできなくさせようとする悪しき力が、しがらみのように、覆いかぶさろうと、角が北からも南からも、西からも東からも、四方向から攻めていた。神殿を建てる工事を始めた彼らに、敵からの圧力がかかっていた。

 

日本での信仰の歩みにも、時に、あの手この手で、思い煩いや、誘惑、試練、迫害など様々な形で、思うように進めなくする力が、周りで起きてくる。

 

そのような時、一体どうしたら良いのか。イスラエルに神殿を建てようとする時、日本で神礼拝の生活を立てていこうとする時に、その障壁にとなってくるような力、角を砕くには、何をすればいいか。イスラエルが過去にした過ちのように、軍事力に頼るべきなのでしょうか。あるいは頼りになる王国に助けを求めるべきなのでしょうか。

 

そうではない。神さまはゼカリヤに、4つの角がある方法で砕かれる幻をお見せになった。それは、4人の職人によってでありました。悩みの種であった角を砕いたのは、軍人でもなければ、王様でもなかった。それは、職人でした。

 

職人が持っていた、その、ハンマーこそが、角を砕くことができるのだと、神さまはゼカリヤに気づかせた。ゼカリヤが夢から覚めたら、窓の外からは、今日も神殿再建の工事の音が聞こえてきたことでしょう。「カン、カン、ゴン、ゴン!」静かに、御声が聴こえてくるようだったでしょう。「恐れないで、ただ、神殿を建てよ」と。何よりもまず、「祈りの家」を建てる。そのことこそが、あらゆる角を砕くのだと。神さまは、幻で勝利を先に見せてくださっているのです。

 

さて、イスラエルには、神の民を妨害しようとする、あらゆる角を砕くための、神殿を建てる職人たちがいました。そこで祈りが献げられるためです。

 

ECにとっての、「祈りの家」を建てる者たちとは誰でしょう。それは、私たちではありませんか。さあ、神の職人たちよ。私たちは、日本に帰国する魂を教会から散らそうとする、あらゆる角を砕くために、祈って参ろうではありませんか。

 

[ec23]ぷれっぷデボーション②旅人へのパンが必要なのです。

みなさーん、こんにちは!

いよいよECが近づいてきましたね!ZOOMでやっているECのための祈り会、ぷれっぷのデボーショナルメッセージ第2弾です!

次回のぷれっぷは、次回は11月25日(土)8am(EST), 7am(CST), 6am(MST), 5am(PST), 10pm(JPN)です!

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前回はヨナ書から「神さまも惜しんでおられる」というメッセージをしました。

 

ヨナが、トウゴマが枯れてしまった時に悔しんだ、惜しんだように、私たちも何かを失った時に、それがいかに大切なものだったのかに気づいて、惜しむことがあります。でもその経験は、神さまがニネベの人たちを、また日本人の魂をも、惜しんでおられることを、分かってもらうためでした。それほどまでに、神さまは日本に帰国する方々が教会から離れてしまうことがあるという現実に、心を痛めておられ、その破れ口に立つ者に、私たちになって欲しいのです。

 

それが前回のメッセージでした。なるほど神さまは日本に旅立つ帰国者のために、必要なことを私たちがするように奉仕へ招いておられる。それが分かったところで、次はこんな思いが湧き上がってくるのです。

 

では私たちに一体、何ができるのだろうか、と。…何ができますか?…海外に来て、日本にはいないような大勢の信仰者たちに出会って、福音に触れ、イエスさまを知った信仰者たち。そんな彼らが、旅人として、また帰国していくその先で、様々なギャップに出会い、教会から離れて行ってしまう。そんな出来事に対して、神さまは惜しんでおられる。そしてその気持ちが私たちにも分からされた。でも一体私たちに何ができるでしょうか。何ができるんでしょうか。

 

今日お読みした箇所には、旅人のために必要なパンを渡すことができない人物が描かれています。旅人にパンが必要なのに、何もしてやることができない、その人は、ある人の所へ助けを求めに行きます。それは、頼れる友人、しかもおそらく裕福で豊かな富を持っている友人の所でした。

 

彼にパンを三つ貸してくれと頼むのでした。あの友だちなら出してくれると、彼はすがったのです。彼はこう考えたからです。「私には旅人たちに何もしてやることができない。でも、私には、あの友人に、旅人のために必要なパンを出してもらうようお願いすることはできる。」

 

皆さん考えてみてください。真夜中に「ピンポーン」ってチャイムを鳴らすことができる友人、何人もいますか。そんなことができるのは、最も仲の良い、一人の友人ですよね。

 

この譬え話は、弟子たちがイエスさまに「祈りについて教えてください」と尋ねた時に、「主の祈り」を教えられてから、その次に教えられた譬え話です。

 

イエスさまはこの譬え話の中で、ご自分のことを、豊かな富を持っている、頼れる、唯一の、いつでも助けを求めることができる、あなたの友であると、教えているのです。

 

その友に、旅人のために必要なパンをあなたが求めなさいと、今日はこの聖書の箇所から語られています。

 

そういう祈りのことを、「とりなしの祈り」と言います。自分が無力であることを知っている人が献げることのできる、祈りです。

 

そしてその祈りは、熱心に献げられるべきものであることも、この聖書の箇所は教えています。しつこく祈れ、と。

 

どうしてイエスさまは、しつこく祈ることを求めておられるのでしょうか。この「しつこさ」と翻訳されたギリシア語は、ἀν•αιδεια(anaideia)という言葉です。英単語でも、最初にunが付く単語は、否定の意味が含まれていますよね。例えば、unbelievableというのは、「信じ・られない」という意味ですよね。この「しつこさ」と訳されたἀν•αιδειαという言葉は、「慎み深く・ない」という意味なのです。

 

だってパン3つですよ。夜中に扉を「ドンドン」ですよ。大胆に祈れ、おねだり上手になれ、とイエスさまは私たちに教えているんですね。おねだり上手な祈りってどんな祈り?と興味がある方は、ぜひアブラハムやモーセの祈りから学んでください。創世記18章と、出エジプト記33章です。

 

でも意外にもこの友人は、「もう寝たいから面倒をかけないでくれ」と最初のうちは断るんですねえ。これは譬え話でして、イエスさまがこのような性格ではないことは私たち分かっているのですが、それならこの一度断るくだりは何を教えたいのでしょうかね?

 

私は思うのです。イエスさまは、私たちが諦めないで信じ続けて祈りの答えが来るのを待っている姿を喜ばれるのだと。どうしてかと言うと、私たちが求め、主が与える、という関係こそが、私たちと神さまとの絆だからです。

 

男性の方いますか。女性から何かを頼られた時に、お願い事をされた時に、おねだりされた時に、きっとこう答えてしまった経験あるんじゃないでしょうか?「え〜、どうしよっかなー?」って。経験ありませんか。いや、あるでしょ。笑

 

それは決して意地悪したいという悪い気持ちではなくて、2人の関係性をより親密にしたい想いからくるものですよね。そうです。イエスさまは私たちの信仰を、イエスさまへの信頼を、もっともっと深くするために、祈りにおいて熱心になるよう招かれます。

 

するとどうでしょうか。この、頼れる友人が与えた物は何でしたか?三つのパンでしたか?いいえ、私たちが願うところ、思うところをはるかに超えて、この友人は「必要なものを何でも」あげてくれるのですね。

 

これが、私たちが旅人に対して、パンを与える力が無いことに気づかされる必要がある理由です。私たちは旅人たちに何もしてやれることがない時に気づく時に、この、必要なものすべてを与えられる友人に、祈り頼る者へと変えられるのです。

 

さぁ、帰国者ミニストリーに携わる私たち。とりなし祈る者として仕えて参りましょう。

 

 

 

 

[ec23] ぷれっぷデボーション①神様も惜しんでおられる

みなさんこんにちは!EC準備祈祷会、ぷれっぷでは毎回大竹信和神学生がショートメッセージをしてくださっていますが、それがとてもいい!!

ので、ブログでも折々にシェアさせていただきたいと思います。

恵まれた方、またぷれっぷで共に心を合わせてECのために祈りたい方、次回は11月25日(土)8am(EST), 7am(CST), 6am(MST), 5am(PST), 10pm(JPN)です!

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皆さんは何かを失った時、それを惜しんだ経験をお持ちでしょうか?失って初めてそれが自分にとってどんなに大切であったかに気づいた、という苦い経験が、きっと誰しもが一度はおありなのだと思います。痛みを伴うかもしれませんが、もし可能であれば今少し、その時の気持ちを思い出してみて頂きたいのです。

 

なぜならその経験は、神さまもよくご存知の痛みでありまして、神さまの愛を痛烈に知る手がかりとさえなるからです。

 

どういうことかと申しますと、神さまが私たちにとって救い主であってくださるのは、まさに神さまが「失われている存在を惜しまずにはいられない神」だからなのです。私たちが何かを失う痛みをよく知っているならば、それだけ神さまのおこころも知るよしがあるのです。

 

そして、その痛みを深く知っている人は、神さまの望んでおられる働きのために奉仕する原動力を秘めているのです。

 

自己紹介が遅れましたが、私はこの度ECの祈りのアシスタントディレクターとしてリクルートを受けました、神学生の大竹信和と申します。

 

実は今までECのことを知りませんでしたし、何もかも初めての状態で、友だちの西村日和姉を通して奉仕者として招かれました。

 

そしてしかも、こうしてぷれっぷでのみことばのメッセージを担当することになりました。正直、何を語って良いか分からない中、準備の期間を過ごして参りました。

 

ですが3日前に、私はある夢を見て夜中に目を覚ましました。それは、私が最近経験した、つらい喪失体験を思い出すような夢でした。

 

布団から飛び起きて、暗い部屋の中、思い出してしまった喪失体験に心痛めながら、「どうしてなのですか、主よ」と、大切なものを失って以来、口癖のようになっていた祈りをポツリとつぶやきました。

 

その時、「あなたは惜しんでいるのか」という御声が頭に響きました。

 

私はすぐにヨナ書を開きました。そこには、不機嫌なヨナの機嫌を直そうと、神さまが生やされた一本のトウゴマが、枯れてしまって、またもや怒っているヨナの姿が描かれていました。

 

私にはこのヨナの気持ちがよく分かりました。「いったい何をしてくれるんだ神さまは」という、失った悲しさからくる怒りと、疑惑がそこにありました。こんな経験をさせられるのはいったい何のためなのだと。

 

そんなヨナに主は語りかけるのでした。

 

ヨナ書 4章10~11節

“主は言われた。「あなたは、自分で労さず、育てもせず、一夜で生えて一夜で滅びたこの唐胡麻を惜しんでいる。ましてわたしは、この大きな都ニネベを惜しまないでいられるだろうか。そこには、右も左も分からない十二万人以上の人間と、数多くの家畜がいるではないか。」”

 

ヨナがトウゴマを失った悲しみ、それを惜しむ気持ちを経験したのは、何としてでもニネベの人たちを救わなくてはならないという神さまの惜しむ気持ちが分かる者となるためでした。

 

私は「どうしてこんな夢を見せたのですか」と思っていたその夜に、神さまが日本人の魂を非常に惜しんでおられることを知りました。

 

せっかく海外で福音に触れて、イエスさまを知り、十字架の愛に捉えられて救いに至る信仰を受け取った魂が、日本に帰国すると、そのギャップで教会から離れてしまう人も多いという現実。その現実に、神さまは心を痛めておられる。「どうして」と呼びかけずにはいられないほど惜しんでおられる。

 

その苦しみを、神さまは私にも分かって欲しかった。なぜなら、帰国者のために仕えるミニストリーにこの年末、関わる者として、熱意をもってその奉仕にあたるため。

 

海外邦人宣教団体の働きに、主は熱意を持っておられます。Equipper Conferenceには主のみこころがあります。それは、これから帰国しようとする日本人の魂を、失うなんて惜しまずにはおられないほど愛しておられる神さまの、熱い想いです。

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