🌿心をRestoreする🌿

アメリカでは、ヴァレンタインズデーが終わると、プレジデンツデー(2月第3月曜日)の祝日で、学校は1週間のお休みとなる。今年は、いつもより早めで、ヴァレンタインズデーと重なるため、本来ならスペシャルな連休です。

しかし、外出自粛令の為に、昨年3月から学校や教会に集まることが許されず、今は外出できる距離も150マイルと制限され、遠出をした場合は10日間の自己検疫をしなければいけません。冬休みも祝日も、出かけることや特別感もなく家で過ごし、どこか心が落ち着かないまま、店頭の商品だけが季節ごとに変わり、気がつけば四季が一回りするほど時が経っていることに驚きます。

それでもこのリモート生活は、zoomでの日本のセミナーに参加することが可能になり、行ったことのない街にも、ヴァーチャルで自転車を走らせ、Clubhouseで世界中の方とお話しできる。そして、必要な時はAmazonやDoor Dashで、不自由なく生活できるようになった為、世の中と私の体重は、一気に変貌しました。

そのような毎日にも慣れ、むしろ自由な時間は増え、最初は戸惑った生活のルーティンは守られているのに、なかなか回復しない心とストレス。神さまとの関係、また家族や、会えなくなっていた人達との関係をRestoreするには、どうしたらいいのか?

今は、このことが、世の中が再開する時への課題となってきました。

Restoreとは、修復する回復させるという意味ですが、ご存知のように、元の持ち主に返す元の場所に戻すという意味でもあります。

先日、ヴァレンタイン期間限定キャンペーンを見つけ、主人のお誕生日用に、マグカップの底にRestoreと文字を入れてプレゼントしました。

これは、主人が今年の標語に選んだ言葉だったのですが、ヴァレンタインキャンペーンなだけに、「夫婦関係の修復?懺悔のマグカップなのか?」と、オーダーを受けた人は思ったかもしれません。

あえてこの言葉をカップの底に記すことで、思い出して欲しかった願いとは

  • いつも神さまとの時間を大切に、神さまの懐へ戻れますように
  • この世界と心が回復されるように一緒に祈りましょう
  • 飲み終わったらカップをキッチンに戻してください  でしょうか。

このコロナ禍で、The Church、The World の価値観が急激に変化していく中、目に見えないものに振り回され、動揺してしまう私たちの心。その心が回復するためには、自分のアイデンティティを再確認することが大切だということを、私たちは容易に忘れてしまいます。

まるで、神さまが私を愛していることはもう分かっているから、今はもっと聖書や本の知識を得て、祈り、あちこちの集会に参加して恵まれ、周りから評価される働きをする。その方が、「自分は愛されている」ことを受け取るよりもずっと大切で意味があるかのように思ったり。

見えない不安や孤独を、どこに持って行けばよいのか分からず、自力で修復し、闇雲にストレスを回復させようと試みた事もありました。

私は以前、あることをきっかけに、人前で話すことや、一人で外出や飛行機に乗ることに、極度の緊張や不安を覚えることがありました。そのトリガーは「What if」でした。

まだ、起きてもいないことや、言われてもいない気持ちを仮定して、不安になりました。「自分は、こんなことではダメだ」と勝手に落ち込んだかと思うと、次の瞬間、「きっと、こうすれば大丈夫ではないだろうか」と考える。何をしたら自分の理想や、周りの期待に応えれるかを考えては、溢れてくる喜びや感謝とは別のものに掻き立てられて行動に移ろうとする。そして、周りの人の言葉や行動に敏感になり、心が大きく反応すると、それはたちまち体に現れました。

神さまは、そんな私のそばにいつも居て見守り、

「わたしと一緒に休まないか」

「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」

「さぁ、わたしと一緒に行こうか」

「大丈夫。わたしはあなたと共にいる」

と静まりの中に、時にかなったみ声をかけてくださいました。

ただ日常から離れた場所に出かけて、思い煩いを忘れ、心を空っぽにするだけでは、疲れ傷んだ心を回復させるのは難しいかもしれません。けれども、私の心と身体を造られた神さまの元に戻り、御手の中で憩い、み声を聴き、私の心の軸となって頂くことが大切ではないでしょうか。

私たちは自分や周りの人が思うほど強くないので、これまで経験した失敗や心の傷は、どんなに昔のことでも、いつでもトリガーとなって、私たちのアイデンティティをすり替えようとします。しかし、その度にそばに居て下さるキリストに気づくことができるのは、救われた者の特権です。ですからそんな時は、忘れ物に気をつける子供のように、このリストに目を通すことにしています。

Who are we really のリスト

  1. I am a child of God. (John 1:12)
  2. I am a new creation. ( 2 Corinthians 5:17)
  3. I am a friend of Jesus. (John 15:15)
  4. I am created by God to do good. (Ephesians 2:10)
  5. I am free in Christ. ( Galatians 5: 1)
  6. I am chosen and loved. ( 1 Thessalonians 1:4)
  7. I am the light of the world. ( Matthew 5:14)
  8. I am not ruled by fear. (2 Timothy 1:7)
  9. I am forgiven. ( Colossians 2:13)
  10. I am God’s possession. (Titus 2:14)
  11. I am free from the desires of the flesh. (Galatians5:24)
  12. I am a light in the world. ( Matthew5:14-15)
  13. I am secure in him. (1 Peter 1:3-5)
  14. I am loved by God. (1 John 4: 10)

たとえWhat if、、、に心が動揺し、トラウマや先が見えない不安に支配されそうになっても、こんなにもハッキリと、聖書に書かれているのですから、もう一度自分のアイデンティティを思い返し、心をRestoreしていただきましょう。

🌿 本当の自分は、誰なのか

🌿 誰が今ここに、共にいてくださるのか

🌿 誰がこのことを、一緒にプロセスしてくださるのか

私はそれを知ることで、心に言葉に言い尽くせない平安を得ることができました。

ヴァレンタインズデーは、愛する人に思いを伝える日だけではありません。聖ヴァレンタインを記念したように、これまで自分に愛を注いでくれた大切な人、多くの人の愛を、思い返す日だとも思うのです。神さまから愛されている自分のアイデンティティを思い返す時、疲れ傷ついた心が回復され、愛に満たされ、今度は周りの人にその愛を、自然と分け合えるようにRestoreされていきたいですね。

新しく迎える月も、神さまが一緒に歩んでくださる旅を、心からエンジョイできますように。🌿

 

中尾真紀子
サンタクララバレー日系キリスト教会牧師の妻
🇯🇵🇨🇦🇺🇸生まれの三人娘の母
趣味: 夫の観察、無駄にインテリアの模様替え
主婦ブロガー https://violetteivory.wordpress.com/
妄想カフェをしながら、静まりの隠れ家カフェ準備中

イエスの御名で(ヘンリ・ナウエン)その1

中村佐知(キリスト教書翻訳者、JCFN理事、スピリチュアル・ディレクター)

 

今月から3回にわたり、ヘンリ・ナウエンの『イエスの御名でーー聖書的リーダーシップを求めて』からお分かちしていきたいと思います。

ヘンリ・ナウエンは数多くの著作のあるオランダ出身のカトリック司祭です。イェール大学やハーバード大学で実践神学の教授も務めていました。しかしハーバードに就任してから2年後、大学の競争的で野心的な空気に馴染めなかったナウエンは教授職を退きました。そしてカナダに渡り、トロントにあるラルシュ共同体という知的ハンディをもつ人々のためのグループ・ホームの司祭となり、そこの人々と共に生きる道を選びました。

ナウエンはイェール、ハーバード時代、非常に名の知られた人気のある教授でした。しかしラルシュ共同体の人々にとって、ナウエンは有名人でもなんでもありません。ナウエンはそこで、彼がどういう肩書きや業績を持った人なのかをまったく知らず、気にもとめない人たちの中で暮らし始めたのです。その中で彼が示されたことを元に、これからのクリスチャンのリーダーシップについて思索した本が『イエスの御名で–−聖書的リーダーシップを求めて』です。

この本は、次のような三部構成になっています。

[I]能力を示すことから、祈りへ
  誘惑―自分の能力を示すこと
  問い―「あなたはわたしを愛するか」
  訓練―観想的な祈りの恵み

[II]人気を求めることから、仕えることへ
  誘惑―人の歓心を買うこと
  務め―「わたしの羊を飼いなさい」
  訓練―告白と赦しの回復

[III]導くことから、導かれることへ 
  誘惑―権力を求めること
  チャレンジ―「ほかの人があなたを連れていく」
  訓練―神学的思索への希望

第一部「能力を示すことから、祈りへ 」では、聖書的リーダーシップとは、自分の業績や能力を示し、それを提供することによるリーダーシップではなく、ただ神に愛され、選ばれ、贖われた者として、神の愛のもとに、自分の強さではなく弱さを差し出していくことだとナウエンは言います。

そして、そのようなリーダーシップのための訓練は、「観想的な祈り」だと言います。ナウエンは、mystic(神秘主義者)にならねばならない、という表現を使っています。観想的な祈りとは、私たちの願いごとを主の前に持っていくような祈りではなく、主のご臨在の中で安らぐような祈りです。多くのことばを必要とせず、ただ主の愛を味わうような祈りです。観想的な祈りは、「あなたはわたしを愛するか?」と問われる神の愛の中に、私たちを絶えず留め、そこに根付かせます。私たちが神の御臨在の中に留まることを可能にします。

 

『クリスチャンのリーダーは、ただ道徳的で、よく訓練され、人々を助け、この時代の逼迫した問題に創造的に応答できる、というだけでは十分ではありません。それらのことも非常に価値があり大切ですが、それがクリスチャンのリーダーシップの中核ではありません。ここで要となる問いは、「将来のリーダーたちは、真に神の人であり、神の御声を聞き、神の麗しさを仰ぎ見、人となられた神のことばに触れ、神の尽きることない善を味わうために、神の御臨在の中に留まることを熱烈に求める人であるか」ということです。』

 

ナウエンは、そのためには観想的な祈りが不可欠であると言うのです。「神学(’theology’)」という言葉は、もともと、「祈りにおける神との一体(’union with God in prayer’)」を意味していたそうです。

ナウエンはさらに言います。私たちは神学の神秘的な側面を取り戻し、クリスチャンのリーダーが語る言葉、与えるアドバイス、開発する戦略が、神を、受肉した「ことば」であるイエスを、親密に知っている心から出てくるものであるようにしなければならない、と。

みなさんにも覚えがないでしょうか。何か相談を受けたとき、つい、自分の知識や経験から何かを言おうとしてしまうことが。それは、自分の知識や経験は、この状況に関係があると誇示したくなる誘惑です。しかし、本当に祈りをもって神様に聴くならば、神様の御霊は柔軟に、深遠に、そのときそのときの状況に即した知恵と言葉を与えてくださるのでしょう。主が与えてくださるものは、単なるノウハウではありません。リーダーとしての経験が長くなると、つい自分がすでに持っているものから答えを引き出そうとしてしまうかもしれませんが、その都度、いのちの源であるお方に聴くこと… そのとき、自分でも予想もしていなかったことが示され、自分が助けようとしている人の心や状況にも、思いがけない形で触れることができるのかもしれません。それは、公式ではないのです。ただ、主のなさること。主の御霊が導いてくださることです。

歓迎の祈り

中村佐知(キリスト教書翻訳者、JCFN理事、スピリチュアル・ディレクター)

私たちは、日々の生活の中で不安や恐れ、悲しみ、怒り、いらだち、絶望感など、不快な感情に襲われることが少なからずあるものです。日常で体験する何らかのことが引き金となって、強い感情が湧き上がることもあります。そのようなとき、「闘争か、逃走か」のモードに入り、祈りをもって応答するよりも、感情的に反応(リアクト)しがちです。あるいは、泥沼のような否定的な思考ループから抜け出せなくなったりします。歓迎の祈りは、そういった強い感情に押し流される代わりに、それを主にお渡しし、癒しをもたらす主の御臨在をお招きし、その中に自分の身を委ねることを助けてくれます。

歓迎の祈りとは、究極的には明け渡しの祈りです。前述のような強い感情は、往々にして、私たちの心の奥底にある、ある種のニーズや願い(安全や保証、愛情や承認や尊重、コントロールや力)が何らかの形で満たされていないとき、脅かされると感じるときに出てくるものです。そこで、そのような感情が出てきたとき、いったんそれを十分に受けとめ、その上で、自分の奥底にあるニーズを真に満たしてくださるお方に、それらの感情やニーズを明け渡します。この祈りを祈れば、そのとき感じていた強い感情がただちになくなるとは限りません。何度も戻ってくるかもしれません。そうであれば、そのたびにその感情を、祈る機会へと変えることができます。神様に思いを向ける機会にすることができます。そこから先は、私たちの祈りを聞いておられるお方に委ねましょう。

 

(1)じっくりと感じる:今このとき、自分が体に感じている感覚に注意を払い、よく意識する。

強い感情はしばしば身体的な反応を伴います。なんだか体がそわそわしている。呼吸が浅い。心臓がドキドキする。からだがこわばる。胸が苦しい、ムカムカする、動悸、頭に血がのぼる、体がしびれる、どこかに痛みがある、など。まずは自分の身体がどこで何を感じているのかを意識してください。身体が感じているものを、抑圧せず、目をそらさず、深呼吸をしながらしっかりと感じてください。身体のどこで緊張感を感じているでしょうか。どこに痛みがあるでしょうか。どこが苦しいでしょうか。身体が訴えているものに注意を払ってあげましょう。その感覚は、あなたに何を知らせようとしているのでしょうか。今あなたの中にどんな感情があることを示唆しているでしょうか。あなたが今感じている感情は何でしょうか? 怒り、苛立ち、失望、絶望、悲しみ、恥の思い、不安…

あるいは、怒りや苛立ちなどを感じているとわかっていても、身体も反応していることには気づいていなかったかもしれません。身体の感覚にも注意を払ってください。身体は、私たちが無意識のうちに感じていることに対して反応していることがよくあります。自分が意識している感情以上に、身体のほうが正直にサインを送っていることがあるものです。そのような身体的感覚、またそれを起こさせている感情を、否定したり抵抗したりせず、あえてそのまま感じてください。決して自虐的になって否定的な感情に耽るということではありません。こんな感情を持ってはいけないと思ったり、自分が心と体に感じているものの良し悪しを判断したり分析する必要はありません。単に、今、自分がそのような感情や感覚を経験していることを認めます。このように、身体が感じている感覚をそのままで受け止めるとき、その背後にある強い感情から、少し距離を取ることができます。感情と、あなたという人間が切り離されます。感情があなたを支配する力を緩めることができます。どんなに強い感情があっても、その感情はあなた全体ではなく、あくまでもあなたの一部でしかないのです。

 

(2)自分が感じているものを歓迎する。

文字どおり、「ようこそ、恐れ(怒り、不安、悲しみ、失望、いらだち…)」と口に出して優しく言ってみます。小さな声でいいです。声に出したくなければ、心の中でもいいです。歓迎するとき、本当に親しい友人、愛する人がやってきてくれたかのように、心をこめて「よくきたね」と言ってあげてください。私はよく、ゲゲゲの鬼太郎の目玉おやじが、その否定的な感情の名前(怒りとか悲しみ)を書いたはちまきをして私のところにやってくる場面をイメージします。そしてその目玉おやじを、「よくきたね、ようこそ」とハグしてあげるのです。もちろん目玉おやじでなくてもかまいません。私の場合は、そうするとイメージしやすいからそうしているだけで、みなさんにとってイメージしやすい形でイメージしてください。自分にまとわりつく子犬や幼子をイメージしてもいいかもしれません。あなたにまとわりつき腕の中に入り込もうとする子犬たちが複数いるかもいれません。一匹一匹を歓迎してあげてください。大切なことは、自分が拒絶したいと思っていたその否定的な感情を、なるべく具体的に歓迎することです。この祈りを考案したMary Mrozowskiは、この「歓迎」を、さらに「もてなす(be hospitable)」と表現していました。

恐れないぞ、悲しまないぞという具合に、自分の中に湧く否定的な感情に抵抗しようとすると、私たちの思いは一気に戦闘モードに入ってしまいます。戦闘モードに入ると感情はますます高ぶり、体はますます緊張するでしょう。しかしそれらの不快な感情を、自分にとっての客人として歓迎するならば、それらの感情を引き起こしていた出来事や状況は、もはや私たちの心の平安を乱す力を持てなくなります。そして不思議と心や体の緊張も解けていきます。

ただし、歓迎するのは自分が感じている感情であって、そのような感情を引き起こしている原因・問題(たとえば病、災害、いじめ、困窮、社会構造、びっしりのスケジュールなど)ではありません。また、否定的な感情を歓迎するとは、その中に喜んで留まるという意味でもありません。その感情を敵視したり目を背けたりするのでなく、もてなす気持ちで受け止めるのです。そして、そのような感情を感じているそのとき、その場に、神のご臨在があることを覚えます。あなたが目玉おやじをハグしているその隣に、イエス様が一緒におられます。イエス様が目玉おやじをハグしているあなたのことを見守り、そっと抱き寄せてくださいます。そもそも目玉おやじが出てきてしまったのは、あなたのニーズが満たされていないと感じたからでした。あなたはそのニーズを、知らず知らずのうちに、自分の力で満たそうとしたり、周囲の人や環境によって満たそうとしていたのかもしれません。目玉おやじをもてなしたら、イエス様に紹介してあげてください。

 

(3)受け止めたその感情や、それを支配したい、変えたいという願いを、神に向かって手放す。

そして、「神様、あなたに私の恐れ(怒り、不安、悲しみ、失望、苛立ち…)をお渡しいたします。」と祈ります。目玉おやじを抱きかかえ、イエス様に手渡すイメージかもしれません。さらに、続けてこう祈ります。「これらの感情の背後にある、期待通りに物事をコントロールしたいという願い、他者から受け入れられ、認められ、愛されたいという願い、安全でありたい、安全であるとの保証がほしいなどの願いを、手放します」と祈ります。主だけが神であり、主こそ私を満たし、癒し、慰め、励まし、助け、支えてくださる善いお方であるという信頼のもとに祈ります。

 

The Welcoming Prayer 

Welcome, welcome, welcome.

I welcome everything that comes to me today

because I know it’s for my healing.

I welcome all thoughts, feelings, emotions, persons,

situations, and conditions.

I let go of my desire for power and control.

I let go of my desire for affection, esteem,

approval and pleasure.

I let go of my desire for survival and security.

I let go of my desire to change any situation,

condition, person or myself.

I open to the love and presence of God and

God’s action within. Amen.

(Mary Mrozowski)

ようこそ、ようこそ、ようこそ。 

今日、私のところにやってくるすべてのものを歓迎します。

なぜなら、それらは私の癒しのためであると知っているからです。

すべての思い、感情、気持ち、人、状況、状態を歓迎します。

力や支配を持ちたいという願いを手放します。

愛情や、尊敬や、承認や、喜びを得たいという願いを手放します。

サバイブしたい、安全でいたいという願いを手放します。

状況や、状態や、人や、自分自身を変えたいという願いを手放します。

神の愛とご臨在、そしてその中にある神の御わざに、自らを開きます。

アーメン

(メアリー・ムロゾウスキー)

 

 

 

 

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