ふり返りの時

私にとって、一年のうちで一番好きな季節は秋です。でも、ある時から秋になると心が落ち込んだり、寂しさを感じたり、秋が来ることに身構える自分に気づくようになりました。アメリカは10月、カナダは2月にリーディングブレイクがあるのは、もしかしたら一旦立ち止まることや、 スローダウンする事が必要なのと、何か関係するのかも知れません。

先日、1997年に初めて手にした『いま、ここに生きる』ヘンリー・ナウエンの本を読み返し、「ふり返り」の大切さを思いました。昨年から、この本を翻訳された太田和功一先生から学ぶ機会が与えられ、そこで「意味の探求」の箇所を読むように促されました。その他の『エクササイズ』 ジェームス・Bスミスなどの本では、「意識の究明ーExamen」「思い巡らし」「ふり返り」などと言う言葉で記されていると思います。本の中では、このように霊的な読書をする事に触れられていました。
以下『いま、ここに生きる』から

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私たちは大抵、知識を得るためか好奇心を満足させるために本を読みます。車の修理、料理・・あるいは講演を頼まれた時、その方法を知るためにはそれなりの量を読まなければなりません。・・・しかし、霊的な読 書の目的は、知識や情報に通じるためのものではなく、聖霊によって私た ちを治めていただくためです。・・霊的に読むことの大きな価値は、それが私たちの生活に意味を与える助けになる事です。・・問題は、何を読むかだけでなく、どのように読むかということです。・・私たちは自分にこう問い続ける必要があります。「このことに、一体どんな意味があるだろうか。神はどんなことを私たちに語ろうとされているのか。この現実の 真っ只中で、神はどう生きるように私たちを招いているのだろうか。」

いま、ここに生きる ヘンリー・ナウエン

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私はいつも、このような問いの答えを、そう簡単には見つけることはできず、気がついたら眠っていることもあります。でも、このふり返りを通して、心が恐れや不安や、自分を掻き立てるこの世のことで一杯になるよりも、いつの間にか心が穏やかになっている事に気づきます。

もしかしたら、それらの問いの答えを見つけることよりも、自分自身で意味を探究することそのものに大切な意味がある。そのふり返りのプロセスをすることで、今日の一日、自分のこれまでの歩みに、聖霊が共にいて下さることを感じ、自分の生活の中に働かれている神を知るからかもしれません。

もう一つ、物事や問題に対して「この事にどんな意味があるのか?」を思い巡らしていると、「そもそも自分は、どうしてこのように反応してしまうのか?」という問いに導かれます。そうした時に、私が反応してしまっているのは、「問題」に対してではなく、自分への「誰かの反応」に対して反応していることにも気づくのです。その事を通して、「今の自分」が何に囚われ、何に動かされているかを知るきっかけにもなるように思いま す。

でもこの「ふり返り」の時が、自己吟味や自己分析をして、自分や相手の言動が良かったか悪かったかを判断する事を目的としてしまうと、「自分とは、自分の行った行動、他人からどう評価されるか」という偽りの自己にコントロールされる事になってしまいます。

イエス・キリストが この世に来てくださったのは、そんな私たちに「この世が掻き立てるあなたの姿は、本当のあなたではありません。あなたの真の姿は、あなたは贖われ愛されている神の子どもなのですよ」と伝えるためでした。その事を、あれから24年経った今、改めて思い出させてくれる本。あの時に「偽りの姿」「神に愛されている子」という言葉が心に響いてから、随分葛藤し、長い時間をかけて、やっと少しづつその深さを味わえるようになった気がします。聖書はもちろんのこと、霊的な読書やふり返りは、本当に大切ですね。

礼拝は、神に招かれた「ふり返り」の時でもあります。何度も読んだはずの聖書のメッセージを、礼拝で皆と共に受け取る。一週間必死で駆け抜けた自分の心を、霊の目で丁寧に見つめる時となり、同時に神さまの温かい眼差しとご愛に気づく時間となったら、どんなに平安な気持ちで新しい週を迎えられるでしょう。すっかり忘れていた秋の楽しみ、神の宮に集い礼拝する喜び。もう一度共に味わい、楽しみたいですね。

サンタクララバレー教会日語部 月報あじさい2021年11月3日号より

中尾真紀子

サンタクララバレー日系キリスト教会牧師の妻
JCFN協力主事
🇯🇵🇨🇦🇺🇸生まれの三人娘の母
趣味: 夫の観察、無駄にインテリアの模様替え
主婦ブロガー ++Violette ++
https://violetteivory.wordpress.com/

🌿Re-Connect🌿

July 4thの独立記念日を前に、再生に向かって走りだしたアメリカの生活は、緩やかにいのちを吹き返しているようにみえます。

半年前に

🌿Restー休息する 🌿Restoreー回復する

🌿Connectーつながる 🌿Createー造る

という4つのリズムに取り組んでいることをお伝えしました。

パンデミック前から抱えていた私たちの不安やストレスは、Stay Home生活で更に増えていくことを予想していましたが、一年経ってみて不思議なことに、かえって不安やストレスから自由になっていることに気づきました。

この一年間、私たちにとって何がessential(必要不可欠)なのかを、改めて吟味することになり、それを大切に守るために努力をしてきました。

夫が牧師である私にとって、まず一番大変で、また喜びでもあったのが、家のリビングから配信したオンライン礼拝でした。

外出禁止令が出ていた当時、週に一回の礼拝配信だけでは、不安がつのるのではないかと、牧師のStay Home生活の動画を撮ってYouTube配信をし、電話や訪問を増やしました。その結果、休息、回復のリズムどころか、更に忙しさに追いかけられる毎日がスタートすることになりました。

それでも、これまでの、何かに掻き立てられ、周りと比べて生きていた毎日から、私の魂が本当に求めているものが何なのか、考える機会が与えられたことは、受け取るべき時に差し出された神さまからの恵みでした。

退避生活の中でも、毎週オンライン礼拝を献げられたこと、JCFNの集会や他の機会を通して世界中の人たちと、オンラインでつながることができたことは特に大きな慰めと励ましでした。

パンデミックが収束して一番嬉しかった出来事は、教会の再開と同時に、初めて礼拝に出席された方とお会いできたことでした。その方は、これまで私たちの教会に来たことがなく、家族や友人から離れて暮らすことを余儀なくされていました。そんな状態でパンデミックがはじまり、オンライン礼拝やzoomの学び会を通して、教会や神の家族とつながることができました。また、以前から求道中であったご主人は、教会の皆さんに支えられ、この夏、洗礼を受けることになりました。🙌

このことは、「Connect- つながる」というリズムが、essentialであることを教えられた大きな出来事でした。

「Rest-休息」と「Restore- 回復」の二つのリズムは、忙しさとストレスに縛られている私たちの魂が、イエスさまの平安で満たされていくためのインプットリズムです。

後の「Connect- つながり」と「Create-創造」の二つは、不安や恐れで閉じこもってしまいがちな私たちを、新しい世界、喜びと祝福を受けとる世界へと助け出してくれるアウトプットのリズムです。

このリズムは、イエスさまがそうであったように、退いて静まり、そして積極的に世に出ていって人々と関わっていく、観想的な生き方のことです。この一年の強制終了を通して、私たちの魂には、この観想的なリズムとバランスが大切だと身をもって教えられました。

外出禁止令が発令される直前、私はあるリトリートに参加しました。その時まで、私にとって「休息」と「回復」のリトリートに行くという事は、これまでの自分へのご褒美、そして次のより高いステップや自己実現のために、自分を整える時だと思っていました。

でも、そこでは、休んでも願いが叶っても満たされない自分、そればかりか自分の弱さや足りなさ、醜さ、傷つきやすさに気づかされる時となりました。後になって、あのリトリートは、新しいスキルを学ぶ時でも、ただ休む時でもなく、私にとって大切な魂の必要に気づかせてくれる、神さまからの、これ以上ない恵みの贈り物だったと知りました。

今、振り返ってみると、この一年の全てが魂のリトリートの期間でした。オンラインでのCC、EC、GRC、そして毎週の礼拝で受けた恵みは、自己承認や不安や恐れに縛られている私を、神の子としての自由へと導かれる記念のマイルストーンとなりました。

この一年のひと足ひと足に、痛みの中に共にいてくださるイエスさまの眼差しがあり、それにより私の魂は、新しい視点で自分を見ることができました。その時々に頂いた魂の安らぎは、これまで通らされてきたことの意味だけでなく、神さまが備えてくださった人たちとの関わりの意味にも目を向けさせてくれました。

6月15日に退避生活の規制解除がされ、教会や人との関係がRe-Connectし始めました。

再生しようとする時、そこには痛みも伴います。ソーシャルディスタンスを強いられ、政治的な分断や隔てを経験した私たちは、誰もが簡単に、距離を縮めることができないかもしれません。

例えば、友人や親、自分の夫や妻、恋人に心を打ち明けようとして「あぁ、やっぱり。言わなきゃよかった。」と思ったことはないでしょうか。自分の存在そのもの、意見や弱さを知ってもらいたい時、受け止めてもらえず、傷つき痛むことを既に経験しているので、リオープンしたと言われても、人とのつながりをどのように再生したらいいのかわからない時代になってしまいました。

 

私は、実のところスモールグループが大の苦手です。基本的にシャイなのです。😅つながることへの悪い(面倒、辛い)イメージがあったのか、以前は早く終わって欲しいと思ってしまうタイプでした。

それは、つながりに傷ついているので、自分が関心のないことや、当たり障りのないことを共有することへの居心地の悪さを感じること、また、お互いが自分でもまだ気づいていない魂の深い部分を、誰かに知られたり、共有することにオープンではなかったからだと思います。

でも、つながりを恐れたままでいると、いつの間にか魂が孤立し、私たちが孤独になることを望む敵にとって、神や人への不信を抱かせる最高の状態にしてしまうのかもしれません。

結婚してから、私は🇯🇵🇨🇦🇺🇸の3カ国で12回の引っ越しをしました。これは自慢にもならないくらい、以前は虚しさと痛みを重ねた思い出でした。40代になってから、自分がこれまで築いてきた信頼できる友や教会とのつながりを別の場所で再構築することは、私にとっての大きな課題でした。群れをなしたり、多くの人と関わるソーシャルなことが苦手な私は、必死に周りに合わせようと振る舞い、見た目は普通でも、心はいつもジャグリングを続けるピエロのような状態でした。

それでも感謝なことは、介さん(夫)にいつも心を共有できたことです。(夫と妻という関係では、また別の色々がありますが😅)このパンデミックを通して、自分にとって大切なつながりとは、単に時間や楽しみを共有するだけではなく、たとえ遠く離れていたとしても、お互いの心の内側にあるもの、責任や志(こころざし)を共有できる人たちであることを知りました。

特にこの一年は、神さまがその時々にタイムリーで適切なつながりや、大切な人を置いてくださったことも思い返しています。

リトリートに始まり、例えそれが短い期間に限られた分かち合いであっても、ECのスモールグループでご一緒した先輩K夫人だったり、救われた喜びと献身の思いに溢れた若者だったり、一生懸命に抱えた傷みと闘っている方や、突然サプライズの贈り物をしてくださった方だったり、と様々です。そのような神さまのなされたタイムリーな配置を心に留めることによって、これまで面倒で、厄介な対処すべき存在であった人とのつながりが、自分の魂と向き合う恵みのつながりへと変わっていきました。

先月、娘たちにPrayer Leiを作りました。Leiには「愛する子」という意味もあるとお聞きしたので、これまでも卒業式毎に、祈りながらラフィアとお花をつなげて編んでいきました。

私たちには、神さまご自身が計画して出会わせてくださるつながりが用意されている。

神さまは、私たちの人生の節目毎に、それをそっと首にかけてくれて「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」と慈愛に満ちた声をかけ、そのつながりが美しいPrayer Leiになっていたことを教えてくださる。私が子どもたちを思い祈ったように、神様は、私たちに自分の足りなさや弱さを数えるのではなく、このつながりを思い起こしてどれだけ愛され、祝福されているかを伝えたいと思われているのではないでしょうか。そこにつながるだけで心が休まり、共に時間を共有するだけで励まされ、誠実に自分と関わってくれるつながり。痛みや苦しみを覚えるつながりさえも、神さまの御手でつながれ、織りなされていくと、少々凸凹に見えるけど、世界でたったひとつしかない、オリジナルな「Lei -愛する子」になっていく。

これからは、寂しさを埋めるため、自己承認や誇るためにつながりを求めていた自分から

→   神さまが与えてくださるつながりを、感謝して受け取りなおしたい

→  私自身が誠実に、相手を祝福し、愛することを選びたい

→   友になりたいと望むような友になっていきたい

このパンデミックは、自分の弱さや足りなさも、Wholenessで愛してくださるイエス・キリストが、私の友となって下さった事を、改めて感謝する時でした。

新しい再生に向かう時代に、共に歩んでくださるイエスさまとのつながりと、神に愛された子としての本当の自由を喜んでいきたいと思いました。

 

わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている
──主のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、
あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。   エレミヤ29:11

不慣れなこと故に、毎回緊張してまとまりませんでした。このような貴重な機会が与えられたことに感謝して、これからも魂のリズムについて、少しづつ自分のブログに綴っていきたいと思います。これまで読んでくださった皆さん、ありがとうございました。🌿

 

中尾真紀子
サンタクララバレー日系キリスト教会牧師の妻
🇯🇵🇨🇦🇺🇸生まれの三人娘の母
趣味: 夫の観察、無駄にインテリアの模様替え
主婦ブロガー ++Violette ++
https://violetteivory.wordpress.com/

 

信仰の五月病に見上げた空

今年我が家は、3人の娘がミドル、ハイスクール、カレッジを卒業します。その為、この一か月は、それぞれの学校からの連絡に一喜一憂しては「インパーソンの卒業式になる」「こっちは、プロムもあるらしい」などと、慌ただしい毎日です。

5月の終わり、サンタクララカウンティーは、感染予防段階がイエローへと下がりました。学校も教会も、ハイブリッドでの新たな課題を残しながらも、新しい年度への回復の希望が見えてきました。しかしその裏では、このパンデミックで、社会やコミュニティーからの孤立が日常化した為、信仰のバックスライドや、形骸化の問題が浮き彫りになってきたように思います。

私たちは、4月の終わりに2回目のワクチン接種が完了し、子どもたちも5月中に完了します。6月からは夏休みに入りますが、動き出した世の中は、これからどうなるのか?規制が解かれた後の教会は、どうなるのか?予想のつかない現実に、心の晴れない日は未だ続きます。

2回目のワクチン接種は、既に1回目で倦怠感や発熱を経験していたので、副反応は覚悟してスケジュールを組みました。

予想通り14時間が経過した頃、眠れないほどの悪寒が始まり、引いたかと思うと、今度は熱で眠れない。そんなコントロールできない体の反応を体感しましたが、最初から解熱剤を飲めば大丈夫だったようです。

これが感染予防の為ではなく、実際の感染や病と闘う薬の副作用であったなら、どんなに辛いだろう。比べ物にならない苦しみを経験している友人知人のために、祈らされる時となりました。

そして、ここに至るまでの期間、教会や自治体で、感染を防ぐ為の法律や対策がしっかりなされたことや、医療関係者の方々の尊い労に支えられたことも、感謝せずにはいられませんでした。

話は変わって、その1週間後、長女が大学を卒業しました。その日の天気予報は、式の数時間前から、気温5℃の雨。式に出席するには、2回目のワクチン完了2週間後か、72時間以内の陰性証明の厳重なチェックが行われました。1956年以降、初めてだと言われる屋外の卒業式。冷たい雨が降る中、1時間前から場所を確保し、レインブーツとヒートテックにレインコートで臨みました。

1週間前から、毎日天気予報をチェックし、現地についても10分おきに携帯で予報を調べる私。

介さん(夫)は、「何度あなたが見ても、天気は変わらないよ。人生には雨の日も、晴れの日もある。でもきっとこの雲の上は、綺麗な青空。それを、卒業生たちに教えてくれるなんて、神さま、やってくれたね〜」とブルブル震えながら笑っている。

結局、私が何度チェックしても、祈り願った通りの天気にはならず、前代未聞の雨傘の☔️卒業式となりました。

実はもう一つ、この晴れの日を迎えても、私たちの心には、大きな雨雲が立ちこめていました。半分の卒業生は、社会が動き出す6月にならないと、就職先が決まらないという現実。長女が願ったNPOの三次面接の結果は、とうとう卒業式を迎えても届きませんでした。

人の頑張りでは、どうすることもできない失望の壁。

心に湧いてくる感情の副反応を直視し、その失望や苛立ち、不安を傍に置くこと。

私たちの弱さのうちに働かれる神を見上げること。

順調な時にはできたとしても、今は立ち上がる気力も残っていない。それはまるで、頑張ってきた自分の意思に反する「信仰の五月病」のようなものなのかもしれない。

たとえ信仰を持っていても、期待とその結果としての失望を経験することがある。その傷みに心が大きく反応し、それを繰り返すうちに、信仰がバックスライドしていく。

私たちが、自分の過去や今起きていることの意味を、神さまに何度問うても、到底理解できない時。仕方がないとあきらめる理由を見つけては、信仰の敗北者になってしまったかのように、周りから距離を取り、段々と孤立していく。

高校生の時に救われて以来、家族や友人への伝道や奉仕に、熱く燃えていた私にも、20代の初め、自分でコントロールできない現実と失望の壁にぶつかって、神さまから離れた時期がありました。

そんな信仰の五月病の時こそ、雲の上の空を見上げ、

① 結果ではなく、主ご自身を待ち望む信仰

② 今、この時を共に歩んでくださるイエスさま

が与えられている事を、何度でも思い返したい。

私には幸い、どんなに遠く、お互いの近況を知らずとも、年に一度は「どう、元気にしてる?」と気にかけてくれるHi-ba時代からの友人がいる。これまで何度も遠くに暮らす彼女の存在や、送られてくるニュースレターに励まされ、神さまの元に戻っていくことができたか、きっと彼女は知らないと思う。

けれども、そうやって神さまは、救われた時からそのような人たちを備え、これまでの旅路で、寄り添ってくれた人たちのことを、時折り思い出させてくれるのだと思う。

アウトカム(結果)を手放すことは、そのプロセスを通して、ゆっくりと、イエスさまを思い、何度でも、何度でも、イエスさまご自身を受けとりなおすことなのかもしれません。

数年前にも、心が「失望」「不安」「怒り」でいっぱいになって、そんな自分にがっかりした事がありました。「早く手放さなきゃ」「委ねなきゃ」と、信仰による焦りに掻き立てられ、緩やかに、でも確実に心が圧迫されるようでした。その時、参加したC−WITで、観想的な祈りや、センタリングプレイヤーを教えていただきました。

EC20B Workshop: 観想的な祈り by 中村佐知

GRC21 Workshop: センタリングプレイヤー by 中村佐知

それからは、少しづつ、自分に起きていることのプロセスや、そこに介入される神さまの存在に、注意を向けるようになりました。

そして、突然やってくる感情の副反応も、信仰の五月病らしきものも、芋虫がさなぎを経て、蝶にBecomingされていくように、目的を持った回復へのプロセスだと考える。

これは決して修行のように、ただ耐え忍ぶ類のものではなく、プロセスを自分なりにエンジョイすることができることも知りました。

BEFORE

これまでは、目の前に回転寿司のように流れてくる「問題のお皿」を、「うわっ、来た!どうしよう」とわざわざ自分の懐にたぐり寄せては、そのお皿を食べなければならなかった自分。(美味しいお寿司なら嬉しいけれど)

AFTER

それからは「あぁ、来た。、、、これがそれね。」と「問題のお皿」を認識する。例えそれが特上の問題であっても、「イエスさま〜」とただ主にフォーカスして、その名を声に出してみる。そのうち、そのお皿は流れているので、私がたぐり寄せない限り、いつの間にか見えなくなってしまうのです。

これは、自分の責任を無視して、努力しないというのではない。むしろ主を信頼できず、備えられた時と結果を待てない私。なんとか結果をコントロールしようと、必死な自分に気づかせ、その不安や駆り立てられる思いから、自由にされる気がしました。

「たとえ自分の心が責めたとしても、安らかでいられます。神は私たちの心よりも大きな方であり、すべてをご存じだからです。”」(ヨハネの手紙 第一 3章20節)
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

当然ながら、またしばらくすると同じようなお皿が流れてくるのだけど、それが何百、何千と流れていく度、その問題を引き寄せない代わりに、自分がイエスさまの元へと引き寄せられていることに気づく。もはや、自分で問題を解決するよりも、そこに介入されるイエスさまとの対話を楽しみ、御手の業に期待するようになる。

私たちは、疲れたから休むのではなく、疲れる前に、休みが必要です。

最近の私の静まる時間は、心配事の雑念をはらう修行の時ではなく、ただ神さまの愛を受け取るだけに、そこに在る時間となり、時には眠ってしまうほどの、このうえない至福の時となりつつあります。

あの日、卒業式が終わりに近づき、卒業証書を受け取りにステージに上がる頃、吹きつける冷たい風が雨雲を吹き飛ばし、空には青空が広がっていきました。

それは、見たこともない御伽の国の風景のようで、何度写真を撮っても、その美しさと素晴らしさの感動を、収めることはできませんでした。

久しぶりに家に帰ってきた長女は、その後もテストや面接が続き、願っていたNPOに就職が決まりました。これも握りしめるべき結果ではなく、次のステップへのプロセスとして、神さまが見せてくださった青空だと話しています。

今もう一度、あの雨の上がった美しい青空を思い出しながら、神さまはこれからも、皆さんがまだ見たことのない信仰の青空を、それぞれに見せてくだることにワクワクしています。

新しく迎える6月も、皆さんの見上げた空に、美しい青空が見えますように。🌿

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。」(伝道者の書 3章11節)

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 サンタクララバレー日系キリスト教会 中尾真紀子
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