C-WITで受けた恵み

こんにちは。御名を賛美します。

四半世紀近くシアトルに住んでいる永田智子です。

2022年の3月、初めて行われたZoom C-WITに参加しました。その時の私の状況は、仕事や学業に追われて、生活の基本であるデボーションについても「時間がないから」と自分の中で後回しにしがちでした。そして目の前の締切があるものと仕事をする時間を優先させていました。2022年の2月、無事に学校が終わってホッとしていましたが、なかなかデボーションに心が向かわない日々が続いていました。そのようなときに神様の前に静まるという最初のC-WITに参加しました。C-WITは大人のクリスチャンのリーダーシップに関する勉強会なのかなと思いつつ参加しました。私も少しずつ仕事場でリーダーシップの役割に関わることが多くなってなったから、クリスチャンとしてどのようにリーダーシップを発揮がしたらいいのか、聖書からの紐解きがあるのかもと興味を持って参加してみました。すると私が勝手に考えていた内容とは全く違って、1回目は静かなときに語られる神様と、そしてContemplative Prayerのことを学び、実践するときでした。静かに神様のことを自分の呼吸と共に感じながら、神様を呼び求めることは新鮮で、今の生活でも心配なことが起こったときは特に、このように短く自分の呼吸を意識しながら神様の平安をいただきながら歩んでいます。

そして今年の春のには日常生活のルーティンにいる神様、夏には試練が起こったときの神様の導きの証を分かち合ってもらいました。その後にスモールグループになって、それぞれのメンバーと神様から語られたことを話したときに、それぞれの置かれた状況は全く違うけれど、その時その時に確実に神様が不思議で私の思いもよらない方法で、皆さんに応答してくださっているということがわかりました。

この3回のCWITで身体的に又は精神的につらい状況で参加してくださった方々から神様の日々の歩みをシェアしていただいことで、私の中で神様はいかなる時も私たち一人ひとりと共にいてくださることを深く心で受け取ることができました。

2023年現在、やはり仕事に追われているのが現状です。そして日本のほうで身体的に注意が必要な家族が出てきました。なので毎日オンラインでメッセージをしたり、画面を見ながら話したりする毎日が続いています。まだ信仰告白をしていない家族なのですが、今の状況になってから神様の話に少しずつ耳を傾けて聞いてくれるようになっています。そしてお祈りも一緒にしていて、日々の生活が守られるようにお祈りも頻繁にしています。初めて一緒にお祈りをしたときには、私には勇気が必要でした。それが今では普通にお祈りができるようになっています。このように私の日々の生活の中でも確実にイエス様が私と共にくださって、聖霊様の導きで背中を押してもらいながら前に進んでいます。まさに2回目のC-WITで尾関祐子さんがシェアしてくださった、日常のルーティンをしているときに神様の臨在があるというように、私もトイレ掃除をしているときに心が静まり、神様の存在の大きさを感じます。その神様のことをもっと知りたいと静かに感じて、イエス様は私をどのように導いてくださるのか知りたくてデボーションをしたくなり、聖書を読んでお祈りをする日々です。眠くてギリギリまで寝ていて、To-Do listに追われてデボーションがすっ飛んでしまう日もしばしばです。日々の生活の中では、不安になったり心配で心が押しつぶされそうなときもしばしばです。特に日本の家族のことでは、距離があるがゆえにすぐには手が出せず、神様にお委ねするしかないときもしばしばです。でも神様は、その時その時に乗り越えられる方法を、私の予想を超える方法で用意してくださっています。

C-WITに参加して、現在も学んでいることは、

「日々の生活の中に聖なる神様が共にいてくださる、それが静かで穏やかなときでも怒涛のような日でも、神様の前に静まって、神様の声を聴く。このような関係ができるのはイエス様が十字架にかかって、私の罪を赦してくださったいるから」

ということです。医療関係の仕事柄、昨日まで普通に生活をしていた方が、突然に亡くなったり、又は身体の状況が変わって生活が全く変わってしまうということを目の当たりにします。だからこそ、毎日の生活という奇跡と恵みの中で聖なる神様をお迎えして過ごすことができることが感謝です。

呼吸の祈り

中村佐知(JCFN理事、キリスト教書翻訳者、霊的同伴者)

今月は、「呼吸の祈り」と呼ばれる霊的修練をご紹介したいと思います。

呼吸の祈りとは、吸って、吐いての自分の呼吸に合わせて、心の中で短いフレーズを繰り返し祈るシンプルな祈りです。いつでもどこでも祈ることのできる、単純な、それでいて力強い祈りです。混乱しているとき、不安なとき、疲れているとき、私たちの思いのフォーカスを神様に向け直し、魂を生き返らせてくれます。また、通勤途中や家事をしながら、散歩しながらなど、いつでも祈れるので、自分は主とともに歩んでいるのだということを、1日を通して自分に思い出させることができます。パウロが「絶えず祈りなさい」と言ったとき、彼が想定していたのはこのような祈りだったのかもしれません。

 呼吸の祈りは、歴史的には、紀元5~6世紀ごろまでにさかのぼると言われます。当時、エジプトの砂漠に入って隠遁生活を送っていた「砂漠の師父・師母」と呼ばれる人たちがいました。その「砂漠の師父」たちが祈っていた祈りが、その後東方教会へ伝わり、Jesus Prayerと呼ばれるようになりました。Jesus Prayerとは、「主イエスキリスト、神の御子、罪人の私を憐れんでください。(Lord Jesus Christ, Son of God, have mercy on me, a sinner」という短い祈りです。彼らはこの祈りを呼吸に合わせて1日に何十回何百回と繰り返していたそうです。

 呼吸の祈りは、短い二つのフレーズの組み合わせからなります。息を吸い込みながら最初のフレーズを唱え、吐き出しながら二つめのフレーズを唱えます。実際に声に出しながらではうまくできないので、心の中で唱えます。たとえば、Jesus Prayerであれば次のようになります。

(息を吸い込みながら)主よ…
(吐き出しながら)あわれんでください

 実際に祈るときには、声には出しません。

ギリシャ語で「息」を表す言葉を「プネウマ」と言うそうですが、プネウマには「霊」という意味もありす。聖霊もプネウマです。ゆっくりと呼吸(pneuma)に合わせて祈ることで、自分の内に住まわれる聖霊(Pneuma)を意識することができます。私を慰め、励まし、力を与え、教えてくださる聖霊が、私と共にいてくださることを意識します。

 呼吸の祈りで実際に祈るフレーズに、決まりはありません。 

 エリコでの目の不自由なバルテマイとイエスとのやりとりを思い出してみましょう。バルテマイはイエスに向かって叫びました。「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」。するとイエスは彼に尋ねました。「わたしに何をしてほしいのか」。

 イエスがあなたに「わたしに何をしてほしいのか」と優しく問いかけている場面を想像してみてください。あなたはイエスに何を求めますか?

「主よ、あわれんでください。」

「主よ、助けてください。」

「主よ、ともにいてください。」

 

また、短い御言葉を選んで、それを黙想するときの祈りとしてもいいでしょう。

たとえば、「主は私の羊飼い。」という一節に思いを巡らせながら、呼吸に合わせて祈ります。
主は と心の中で言いながら大きく息を吸い込む。そして、
私の羊飼い と言いながら、ゆっくりと息を吐く。 

 

または、主の御名である「ヤーウェ」を呼吸に合わせて祈ってもいいでしょう。

「ヤー」「ウェ」「ヤー」「ウェ」

…

息を吐き出すときは、自分の中の不安や恐れや苛立ちなど、自分を神様から引き離すものを吐き出すつもりで、息を吸い込むときは、神様の愛、恵み、憐れみなど、あなたを生かしてくれる神様のいのちをたっぷり吸い込むつもりで。

ぜひ、やってみてください。

 

コロナウィルスの脅威の中で、キリストの弟子であるということ

中村佐知(JCFN理事、霊的同伴者、キリスト教書翻訳者)

皆様、いかがお過ごしですか? 日本より一足遅く新型コロナウィルスへの対策が始まった米国では、現在いくつかの州で「外出禁止令」が出ており、学校や教会、レストランやイベント会場をはじめ、人が大勢集まるところはほとんど閉鎖されています。スーパーや散歩などで外出するときも、他の人との間に2メートルの距離を開けることを徹底するよう言われています。この十日ほどで急に状況が進み、皆とまどっています。日本ではこれから新年度に入り、休校だった学校も始まり、出勤も再開するところでしょうか。

突然訪れたこの状況の中で、多くの人が不安を抱えていることと思いますが、今朝、「コロナウィルスの脅威の中で、キリストの弟子であるということ」という記事を読んでいましたら、こんなくだりを見つけました。

このような状況でイエスに倣うとはどういうことだろうか。第一に私たちは、生きておられ、天で御座についておられるイエスの弟子であることを忘れてはなりません。…(中略)…「見よ、わたしは、世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」と言われるイエスが、御霊とともに私たちのうちにとどまっておられます。一人きりになり、思いが内向きになる誘惑に駆られるとき、ともにおられるイエスに何度でも目を向けなおす必要があります。こういうときこそ、普段以上に、一日を通して、確かなキリストの御臨在のうちに励ましと愛の慰めと御霊の交わり(ピリピ2・1)を見つける習慣をつけなければなりません。…(中略)…私たちの主であり、救い主であり、友であり、恋人であるお方は、私たちに注意を払っておられます。人間の状況に、必要に、そして世界中の人々の必要に、注意を払っておられます。私たちもまた、イエスに注意を払おうではありませんか。もちろんニュースも見て情報を得て、自分や自分の周囲の人たちの必要にも注意を払います。しかしそれと同時に、イエスから目を離さず(ヘブル12・2)、上にあるものを思い(コロサイ3・2)、イエスにとどまる(ヨハネ15・4)ことを忘れないようにしましょう。 (中村私訳)

私たちが何に注意を払うのか、何に目を留めるのかは、私たちの感情、思考、行動、態度を左右します。(ピリピ4・8参照)上記のエッセイの著者は、コロナパンデミックのような状況の中にあっても、私たちがイエスに目を留め続けることを助ける修練として、呼吸の祈りや、一日を通して折にふれて立ち止まって主に心を向けること、主の祈りを朝、昼、晩と、黙想しながら祈ることなどを勧めていました。この講座を受講しておられる皆様にとって、このような修練は、すでに馴染みのあるものとなっていることと思います。このコロナパンデミックに関しても、何が私たちの境界線内にある私たちにできること、すべきことで、何が境界線の外にあり、私たちが思い悩んでも仕方のないこと、ただ良い主の御手に信頼すべきことなのか、それらを見分ける知恵を主に求めましょう。

前述のエッセイの著者は言います。

一日を通してキリストに目を向け、キリストの力強いまなざしを見つめるとは、単なる「良い考え」ではありません。イエスの弟子となるとは、イエスのやり方を学ぶことです。(マタイ11・28-30)私たちは、イエスの導きと信仰の先達たちの助けを借りて、日々の生活の只中においてもキリストと神の御国へと私たちの思いを向けなおすための、具体的な方法を持つことができるのです。

先行きが不透明で不安や恐れがあるとき、対応しなければならない数々の事案に追われて疲弊しているとき、それでもその只中におられて、私たちを励まし、助け、守ってくださるお方の御臨在に目を向けることができますように。それによって私たちのうちにある主のシャロームが、私たちを通して周囲の人たちの心を慰めることができますように。この講座で学んできた霊的修練(注)が、そのための助けとなればと思います。

 

(eLearning講座『霊的形成の観点から見る境界線』に投稿した記事の転載)

注:JCFNブログでもこれまでご紹介してきた様々な霊的修練を参照ください。

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